アルコール依存と禁酒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 05:57 UTC 版)
「ユハ・ヴァイニオ」の記事における「アルコール依存と禁酒」の解説
時間が経つとともに、ヴァイニオはだんだんと大酒飲みになった。1960年代末にはグンナル・マットソン(英語版)やアーッレ・エロ(フィンランド語版)とともにタピオン・トゥオッピ(Tapion Tuoppi)をよく通うようになった。彼は飲むものがなくなることに備えてヒップフラスコを持ち歩くようになった。ヴァイニオが飲むようになったのは家庭関係の悪化が一因であるとされている。彼の多くの友人も大酒飲みだったが、彼は大酒飲みという問題があるにもかかわらず常に納期内に歌詞を仕上げた。 1972年、ヴァイニオの友人ヘイッキ・カウッピネン(Heikki Kauppinen)とレイヨ・タニは1972年にアルコールをやめたが、ヴァイニオははじめその決断が変であると考えた。1970年にヴェクシ・サルミ(英語版)がファゼルに雇われると、ヴァイニオとサルミは度々一緒に飲むようになり、二日酔いしつつ職場に来ることもあった。ヴァイニオは一度広告用の歌の歌詞を仕上げることを忘れ、納期が来たときには二日酔いで働ける状態にないためサルミが代わりに歌詞を書き、結果的にはヴァイニオの曲にサルミの歌詞という形になった。1970年代、ヴァイニオはさらに酒を多く飲むようになるが、彼の両親はそれをやめさせることができなかった。ヴァイニオはベッドの下にアルコールを置かない限り寝ないと報じられており、常にアルコールを1ボトルを持ち歩いていたという。ヴァイニオはやがてこの状態が永遠に続くわけにはいかないと気づき、1975年夏にはアルコールを完全にやめることを決めた。ヴァイニオの禁酒はサッカー選手のカイ・パハルマン(英語版)に助けられており、パハルマンはヴァイニオにまだ生きていることが驚きであると述べた。1975年末、ヴァイニオは4か月間禁酒したが再び短期間飲んだくれになり、1976年1月にはようやく完全に禁酒した。 ヴァイニオはオスモ・"オスク"・カネルヴァ(フィンランド語版)など数年前に禁酒した友人の支持を受けた。ヴァイニオの友人の1人エイノ・グロンもヴァイニオに倣って1年半後に禁酒に成功した。ヴァイニオは絶対禁酒者(英語版)とは呼ばれたくなく、自身をアルコール依存症から回復した者として考えた。禁酒した後のヴァイニオの歌はより真面目でより感情的になったが、ユーモアに満ちた歌詞も書き続けた。 ヴァイニオは禁酒したが、彼は他人が酒を飲むことには寛容であり、友人が酒を飲んでも一緒にいることができた。彼は友人が訪れてきたことに備えて(自身が飲まないにもかかわらず)家にアルコールを準備した。また歌詞でもアルコールについて議論するようになった。しかし、禁酒は家庭関係を解決したりはせず、タイナとは結局離婚した。
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