アメリカ合衆国以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/03 16:20 UTC 版)
「イングルウッド (カリフォルニア州)」の記事における「アメリカ合衆国以前」の解説
現在のイングルウッドとなった場所に最も初期に住んだ住民は、今日のエドワード・ビンセント・ジュニア公園(その歴史の大半ではセンティネラ公園と呼ばれた)にある天然泉を利用したアメリカ・インディアンだった。地元の歴史家グラディス・ワッディンガムは、これらの泉がそこから緩やかに立ち上がり、牧童達がその牛の群れを観察できた岡から「センティネラ」(歩哨)という名前を得たと記した。 ワッディンガムは、1781年にロサンゼルスの当初の開拓者達にまでイングルウッドの記録が残る歴史を辿った。その開拓者の中に「シナロアのロスアラモスから来た23歳のラバ追い」であるスペイン軍人ホセ・マヌエル・オルカド・マカドがいた。これらの開拓者達はサンガブリエル伝道所の役人から「伝道所の土地に侵入しないようにロサンゼルスの大洋側の土地で動物達に草を食ませる」よう命令された。その結果、開拓者達すなわち「ポブラドーレス」はセンティネラ・スプリングスに近い青々とした牧草地」にその牛の群れを追っていった。そこに最初に建設されたのは、「牛の群れを入れる囲いと小屋」を建てる許可を1822年に得ていたイグナシオ・アビラによってだった。 後にアビラはセンティネラ・スプリングスから大洋まで流れるクリークを見下ろす小さな丘に3室の日干しレンガ造りの家を建てた。LAOkayウェブサイト に拠れば、この家は現在公園の野球場がある所に建てられたということであり、現在は存在しない。 1834年、ホセ・マカドの息子の一人、イグナシオ・マカドが、現在サンディエゴ・フリーウェイ405の高台にあり、センティネラ・バレー歴史協会の本部として使われているセンティネラ・アドベ を建設した。ワッディンガムに拠れば、2年後にイグナシオ・マカド は2,220エーカー (8.8 km2) のランチョ・アガヘ・デ・ラ・センティネラの土地特許を得たが、この土地は既にアビラによって所有権主張されていた。
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