アステカ/メシーカ文明/タラスカ王国
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「先コロンブス期」の記事における「アステカ/メシーカ文明/タラスカ王国」の解説
詳細は「アステカ」および「タラスカ王国」を参照 トルテカ文明の衰退と共に、メキシコ盆地に政治的な崩壊が起こった。この新しい政治状況にトルテカの権威に対抗する勢力として台頭してきたのがそれまで部外者とされてきたメシーカ族であった。彼等は砂漠の民でもあり、伝説の地アストランからの出自の伝承を共通して持つ7つの部族のうち1つで、「アストランからの来たもの」という意味の「アステカ」を自称する部族であったが、長年にわたった移住の繰り返しの後でその呼称を変えていた。彼等はメキシコ盆地の出身ではなかったので、当初ナワ人たちの中でも素のままの荒々しさをもっていることでいささか軽蔑的にみられていた。彼等は巧みな外交手腕と残忍な戦い方によってのしあがり、「三国同盟」(他にアステカの都市テスココとトラコパンを含む)の盟主としてメキシコの支配者になることができた。 メシーカはメキシコ中央高原にかなり後になってやって来た者であったが、それでもそれに先立つ文明の継承者であると考えた。彼等にとって芸術、彫刻、建築、版画、羽毛モザイク画および暦法はトゥーラの前の住人であるトルテカのものである故に彼等のものだった。 メシーカ・アステカは1400年頃までにメキシコ中部大半の支配者となり(ヤキ族、コラ族およびアパッチ族は北部砂漠のそこそこの地域を支配していた)、1470年代までには他の地方国家の大半を従えさせた。その絶頂期には30万人のメシーカ族が約1,000万人(メキシコ人口2,400万人のほぼ半分)からなる裕福な富を朝貢される帝国を支配した。現在のメキシコ(メヒコ)という名前は彼等の名前から来ている。 その首都テノチティトランは現在のメキシコの首都メキシコシティがある場所にあった。その絶頂期には推計人口約30万人と世界でも最大級の都市だった。そこにできた市場は到着したコンキスタドールがそれまで見たこともないほど大きなものだった。
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