アウローラ脱稿後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/31 23:42 UTC 版)
「ヤーコプ・ベーメ」の記事における「アウローラ脱稿後」の解説
ベーメははじめ己の体験の覚書として『アウローラ』を著し、公開する意図はなかった。しかし友人に乞われてその手稿を貸し出すうちに、これを筆耕するものも出始め、『アウローラ』はベーメの交友範囲を越えて、ゲルリッツ市民に知られるようになった。神秘体験という個人的な幻視と、素朴なキリスト教信仰の合致から生まれた自然と人間の関係についてのこの著述は、しかし当時ゲルリッツの監督牧師であったグレゴール・リヒターにはルター派正統教義をおびやかすものとして認識された。リヒターは説教壇からベーメを異端思想の持ち主として非難し、これに呼応する市民は公然とベーメの自邸に攻撃をするなどし、ベーメの平穏な生活は脅かされた。この結果、ベーメが著述を以後しないこと、リヒターは教会においてベーメを非難することをやめるとの妥協が市の当局の仲裁によって定まり、ベーメは著述を控えることとなった。 一方でベーメの『アウローラ』を好意的に受容する者も一定数存在した。その中には貴族階級の読書人もあり、ベーメの精神的支援者となるばかりでなく、ベーメに錬金術など当時の新プラトン主義的自然哲学思想を媒介するとともに、読書の機会を与えた。ベーメの著作に散見するラテン語はこのような友人たちからベーメが学んだものがほとんどであるが、パラケルススの著述については、これを直接読んだとベーメは証言しており、錬金術用語を『シグナトゥーラ・レールム』・『大いなる神秘』をはじめとする後の著作では大いに用いている。またこの読書はベーメに遅い年齢に達してではあるが、自己の著述を反省し言葉を練る助けとなった。
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