アイルランド平定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/14 15:35 UTC 版)
「ウィリアマイト戦争」の記事における「アイルランド平定」の解説
ジェームズがフランスに逃げ帰った後も戦争は続いたが、ジャコバイト軍に逆転勝利の見込みはもはやなかった。ウィリアム3世自身はボイン川の戦いの勝利後南下して東部のレンスターを制圧して9月にロンドンに帰り、オランダの将軍ゴダード・ドゥ・ギンケルが軍の指揮を託されアイルランド平定を進めた。 ウィリアマイト軍はジャコバイトの根拠地である南西部マンスターの都市リムリックを包囲したが抵抗の激しさから中止した。一方、イングランドからマールバラ伯ジョン・チャーチルが来援に赴き、9月から10月にかけてマンスターの港湾都市コークとキンセールを落としたことでマンスターはリムリックを除いてほぼ平定、アイルランドとフランスの連絡を断つことでフランスからの援軍も防いだ。 翌1691年にギンケルはアイルランド周辺を制圧して西部のコノートへ進軍、7月12日のオーグリムの戦いで決定的勝利を飾り、コノートを平定した後に再度リムリックを包囲した。ジャコバイト軍を率いるティアコネルは病死、パトリック・サースフィールドが後を継いで必死にリムリックを防衛したが、援軍の当てが無いため10月3日についに降伏した。 降伏時に結んだ協定でサースフィールドやジャコバイト軍はフランスへ渡ることが認められ、ギンケルはアイルランド平定の功績でアスローン伯爵に叙爵、ションバーグの息子でボイン川の戦いに参戦したメイナード・ションバーグはレンスター公爵に、オーグリムの戦いで手柄を挙げたヘンリー・デ・マシューはゴールウェイ子爵に叙爵された。ジャコバイト一掃で障害がなくなったウィリアム3世は大陸へ上陸、フランス軍と交戦することになる。 より人々の記憶に残ったのはオーグリムの戦いで、この戦闘で4000人が戦死し、同数が捕虜となった。ボイン川の勝利もあわせて7月12日はオレンジ党勝利記念日として現在も北アイルランドでパレードが行われている。
※この「アイルランド平定」の解説は、「ウィリアマイト戦争」の解説の一部です。
「アイルランド平定」を含む「ウィリアマイト戦争」の記事については、「ウィリアマイト戦争」の概要を参照ください。
- アイルランド平定のページへのリンク