坂部貞兵衛(さかべさだへえ 1771-1813)
坂部貞兵衛は本名を坂部惟道といい、数学にも長じていた。初め暦局に出仕して高橋景保の手附下役となる。文化 2年(1805)以来、忠敬の測量に随行し、そのまじめな性格によって、忠敬や部下の信頼を得ていたという。貞兵衛は現地測量だけでなく、測量結果の室内整理にも積極的に協力し、老齢であった忠敬を内に外に支えた。
忠敬の全国測量は享和 3年(1803)以降、大手分(け)といわれる本隊と支隊がかなり長期に渡って別個に測量を実施する方法によって効率的に実施していた。幕府の事業化した第5次測量以降(1805)に参加した貞兵衛も、やがて支隊の隊長となり忠敬を補佐し、力を発揮していたが、文化10年(1813)長崎県五島西海岸の測量中に病に倒れ、かけつけた忠敬にみとられて、42歳の生涯を福江で終えた。
忠敬はそのときの様子を長女妙薫へ、次のように書き送って、非常に心を落としていたという。「御存の通り測量ニ付き候ては、年来の羽翼ニ御座候間、鳥の翼を落候と同様ニて、大ニ力を落、致愁傷候。天命致方無之・・・・、自今我等ハ大骨折ニ御座候」と。さらに、隊員一同を福江に集め、亡骸を現福江市の芳春山宗念寺に葬り、七日間仕事を休み、弔意を表し善後策を練ったという。そのとき五島藩では3日の間、市中の歌舞音曲を差し止め彼の死を悼んだという。
息子の八百次、本名弘道も父の後を受け、文化12年(1815)から13年にかけての伊豆七島、相武地方などの測量に参加したが、これも文政 3年(1820)に病死した。
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