『雷電日記』が報告する象潟地震の惨状とは? わかりやすく解説

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『雷電日記』が報告する象潟地震の惨状

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 06:18 UTC 版)

象潟地震」の記事における「『雷電日記』が報告する象潟地震の惨状」の解説

江戸時代名大関・雷電爲右エ門象潟地震2ヶ月後象潟訪れており、その時の様子を『諸国相撲和帳』、俗に雷電日記』と呼ばれる旅日記記録している。この日記寛政元年1789年)から文化12年1815年)まで書き綴っていたもので、主たる内容は「何処興行しどのような収支となったか」であり、雷電私事記述していない。にもかかわらず記録されている象潟地震報告は、雷電受けた衝撃大きさ物語る。 以下にその内容引用する日付はすべて旧暦)。 (文化元年八月五日秋田を)出立仕り候出羽鶴ヶ岡参り候ところ、道中にて六合由利本荘市)より(酒田街道を)本庄塩越通り致し候ところ、まず六合より壁こわれ、家つぶれ、石の地蔵こわれ、石塔たおれ、塩越(にかほ市象潟町)へ参り候ところ、家皆ひじゃけ、寺杉木地下入りこみ、喜サ形(象潟)と申す所、前度は塩なき時(干潮時)にても足のひざのあたりまであり、塩参り節(満潮時)はくびまでもこれあり候。その形九十九島あると申す事に御座候。大じしんより、下よりあがりおか(陸地)となり申し候。その地に少しの舟入り申し候みなと(港)もあり、これもおか(陸地)となり申し候。(聞き書きとして)「六月四日、夜四つ午後十時)の事に御座候。地われ(割れ)てわき出ず甚だしきなり。年寄子供甚だなんじゅう難渋)の儀に候。馬牛死す多し酒田まで浜通り残りなしいたみ多し酒田にて三千の余いたみ申し候と申す事に候。酒田町中われ、北がわ三尺ばかり高くなり申しとのことに候。長鳥山(鳥海山その夜、峰焼け出し、岩くづれ下ること甚だしきなり。(八月七日鶴ヶ岡着き仕り候。 — 雷電爲右エ門、『歴史読本特別増刊号’87-8 目撃者が語る日本史決定的瞬間246頁、新人物往来社1987年

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「『雷電日記』が報告する象潟地震の惨状」を含む「象潟地震」の記事については、「象潟地震」の概要を参照ください。

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