『竹嶋紀事』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 07:33 UTC 版)
1693年(元禄6年)4月、朝鮮国慶尚道東莱の漁夫安龍福は「鮑と和布(わかめ)かせぎ」のため鬱陵島に渡ったが、ここで同じく漁をし鉄砲を所持していた日本の漁夫たちに捕らえられ日本に連行される。そして日本で取調べを受けた後、幕府の指示により対馬経由で朝鮮に送還される。(竹島一件) 『竹嶋紀事』によると、対馬藩での取り調べに安龍福は、鬱陵島の北東に大きな島があり、この島を知っている者が于山島だと言ったとしている。また安龍福はこの島を鬱陵島にいた時に二度見たが行ったことはないと言っている。後に彼は日本人の呼ぶ松島(現在の竹島)をこの于山島だと言うのだが、鬱陵島へ鮑やワカメなどを採りに来た安龍福は海岸近くにいたはずであり、海岸付近からの松島は水平線の下になり、快晴でも全く見えない。また方角も全く違い、大きな島でもないので本当の松島ではないことがわかるが、鬱陵島から一日余りで着き逗留中にようやく二度見た島と言うと、山頂付近に登ったり、かなり沖へ出ると見えた可能性もあるので松島と言えなくもない。しかし安龍福が日本へ連行された折に同行していた朴於屯の証言によると、鬱稜島から隠岐への航海中、鬱陵島の「前後、さらに他島なし」と言っており、隠岐への通過点である松島を認識していない。安龍福の言う于山島が本当の松島である可能性は極めて低い。 原文 この度参候島より北東に当り大きなる嶋これあり候。かの地 逗留の内、ようやく二度、これを見申し候。彼島を存じたるもの申し候は、于山島と申し候通り申し聞き候。終に参りたる事はこれ無く候。大方路法 一日路余もこれ有るべく候。
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