『死の棘』の妻として
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1952年9月、島尾家は上京し、江戸川区小岩町に家を構える。同時期に敏雄は旗揚げ直後の文学サークル「現代の会」に加わり、ここで『死の棘』に登場する「あいつ」に相当する女性(ここではXと称する)と知り合った。ミホは家計を支えるため、造花作りの内職をしたり、敏雄の師だった若杉慧の妻が営むバーで働いたこともあった。 1954年9月29日、ミホは敏雄の日記にあったXに関する17文字の記述を読んで錯乱し、敏雄を責め続けるようになる。ミホは翌1955年の1月から3月にかけて慶應義塾大学病院に入院したがほとんど効果は無く、ミホがXからの脅迫文を恐れたことから、島尾家はこの年の4月に千葉県佐倉市へ転居する。当初は精神分裂病(現:統合失調症)が疑われたが、結局心因性反応という診断が付いての慶應病院入院となった。この頃の島尾家は、ミホがXのことで敏雄を責め、敏雄の側も狂言自殺を図る有様であった。佐倉に引っ越した数日後には、Xが文学仲間からの見舞金を集めて島尾家を訪れ、ミホとの乱闘騒ぎになる。Xとの乱闘騒ぎがあった後、ミホは市川市国府台にあった国立国府台病院(現:国立国際医療研究センター国府台病院)を受診し、1955年6月から10月にかけて、敏雄と共に4か月半ほど入院する。退院後は、入院中に奄美へ預けた子どもたちを追う形で、奄美大島の名瀬市(現:奄美市)へ移住した。なお、国府台病院入院直前までの騒ぎを敏雄が私小説に仕立てたのが、彼の代表作でもある『死の棘』である。
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