『昔咄』前編 第七巻
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「長野無楽斎槿露」の記事における「『昔咄』前編 第七巻」の解説
林崎甚助重信 (奥州人 奥州楯岡、近所に林明神(一に林崎と云う)此神に祈りて妙旨を暁りぬ。天下居合元祖。)―田宮平兵衛重正(関東人 後対馬と改む。)―長野無楽斎槿露 (井伊家に仕、夢想流と云、九十余歳にて死す。)―上泉権右衛門秀信―若林勝右衛門尚信(是入) 上泉権右衛門は、神陰流の宗師上泉伊勢守が実子なりしが、生質神陰流の兵法中々暁得すべき器量にあらずとて、父伊勢守示して、林崎がながれ長野が弟子になして、居合を修練せしむ。権右衛門精心を砕いて学習し、居合の名人となり、諸国に遊ぶ。後に尾州柳生如雲が許に至る。 如雲、父石舟斎が師匠たる上泉が子の事なれバ甚だ懇にし、尾州にとどめん事を謀り、居合の指南をなさんがため、まづ、高田三之丞と仕合をなさしむ。初一本ハ三之丞勝って権右衛門抜く事不能。三之丞いへるハ、貴客の居合妙にして、十の物九ハ至れり、今一つの所ぞといふ。権右衛門、暫らく工夫ありて、又敵す。二本めよりハ三之丞かつ事ならずして曰、いまハ微妙を悟し得られたり。恐らくハ天下に勝者なからん。則柳生一家をさきとして、国中の者共弟子になれり。間々免許を得る有り、但し若林勝右衛門ひとり傑出して、門人多し。村上七九郎(武兵衛・只右衛門等が父)高弟なり。 又 瑞龍院様へ御指南仕りぬ。勝右衛門隠居し、是入といふ無刀になれり。一日小山了斎(元祖市兵衛隠居の号)が許へ至る。了斎出迎ふに、是入無刀なり。了斎曰、足下ハ居合ぬきなるに、無刀はいかんぞ。是入曰、居合をぬく故、もはや居合の役に立た不るを知りぬるゆへ、隠居せし。居合が用に立つほど達者なれバ、いまだ御奉公を仕るなり。然れバ用に立た不る、両腰をたばさみて何かせん、扇子一本こそ心安く候へといふ。了斎聞いて、扨々我等も誤りたり、今日よりハ此御弟子にも成る可しとて、是もそれより無刀に成りぬ。 服部初め豊嶋久太夫・若林四郎兵衛・若尾善大夫・荒川新兵衛(高須にて指南)野田善十郎・今村文太左衛門・山田佐左衛門・平井健之右衛門が類、今の代まで指南せるハ、みなこれ是入が末なり。御側中 御指南被下し者多し。御目録被下しも、有之由。
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