『寛政譜』での考証
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「松平忠政 (松平広忠の子)」の記事における「『寛政譜』での考証」の解説
『寛政譜』には、忠政―長清の子孫という諸家の系譜(巻第四十二に収録)に長い按文が付されており、上記の忠政に関する「家説」と、以下のような考証と事件が記録されている。 『寛政譜』編纂時の考証によれば、『寛永諸家系図伝』(以下『寛永系図』)など幕府の記録を確認したが、忠政および樵臆恵最を松平広忠の子と伝える記録が無く、母・お久の方についても大給松平家の記録には存在しなかった。また、広忠寺に寄進したとする土地についての書状も存在せず、従五位下右京大夫の叙任についても疑わしいという。 また、「松平忠政の子・右京進長清」とされる人物は、『寛永系図』にある長沢松平家の孫三郎某(『寛政譜』では「信重」)の子・右京長次と同一ではないかとしている。『寛政譜』本文では『寛永系図』を書き継ぐ形で、孫三郎某―右京長次の子孫とする系図が収められている。なお「長清」の兄「康久」に相当する人物は『寛永系図』に見られないとして、『寛政譜』には記載されていない。 なお、諸家の本家にあたる松平彦大夫信明は、享保20年(1736年)に勘気を被っていったん家禄を没収されており、その子の彦大夫政美が愁訴して、延享2年(1745年)に御家人として家を再興することになる。この際に系譜について問われた同族の松平二郎右衛門忠暁が「忠政」に始まる系図を提出したところ、それが事実であるならば家康の近親であるにもかかわらず、知る者がなく微禄のままであるのは不審である、『寛永譜』の孫三郎某と右京長次が汝の祖先であろうと問い詰められる一件があった。忠暁は、家で書き伝えたものを失ったために父祖よりの口伝で系図を作ったと釈明した。『寛政譜』の考証ではこの一件を、家説の疑わしさを示すものとしつつ、後勘に備えるとして記している。
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