『寛政譜』での考証とは? わかりやすく解説

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『寛政譜』での考証

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 13:55 UTC 版)

松平忠政 (松平広忠の子)」の記事における「『寛政譜』での考証」の解説

寛政譜』には、忠政―長清の子孫という諸家系譜巻第四十二収録)に長い按文が付されており、上記の忠政に関する「家説」と、以下のような考証事件記録されている。 『寛政譜編纂時の考証によれば、『寛永諸家系図伝』(以下『寛永系図』)など幕府記録確認したが、忠政および樵臆恵最松平広忠の子伝え記録無く、母・お久方についても大給松平家記録には存在しなかった。また、広忠寺に寄進たとする土地についての書状存在せず従五位下右京大夫叙任についても疑わしいという。 また、松平忠政の子右京進長清とされる人物は、『寛永系図』にある長沢松平家孫三郎某(『寛政譜』では「信重」)の子右京長次と同一ではないかとしている。『寛政譜本文では『寛永系図』を書き継ぐ形で、孫三郎某―右京次の子孫とする系図収められている。なお「長清」の兄「康久」に相当する人物は『寛永系図』に見られないとして、『寛政譜』には記載されていない。 なお、諸家本家にあたる松平大夫信明は、享保20年1736年)に勘気被っていったん家禄没収されており、その子の彦大夫政美が愁訴して、延享2年1745年)に御家人として家を再興することになる。この際系譜について問われ同族松平二郎右衛門忠暁が「忠政」に始まる系図提出したところ、それが事実であるならば家康近親であるにもかかわらず、知る者がなく微禄のままであるのは不審である、『寛永譜』の孫三郎某と右京長次が汝の祖先であろう問い詰められ一件があった。忠暁は、家で書き伝えたものを失ったために父祖よりの口伝系図作った釈明した。『寛政譜』の考証ではこの一件を、家説の疑わしさを示すものとしつつ、後勘備えるとして記している。

※この「『寛政譜』での考証」の解説は、「松平忠政 (松平広忠の子)」の解説の一部です。
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