『寛政重修諸家譜』に記された系譜と「一柳」姓の由来
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『寛政重修諸家譜』(以後『寛政譜』)が記すところによれば、伊予国の河野通直(弾正少弼)の子として生まれる。大永年間(1521年 - 1528年)に父が没したために伊予国を去り、美濃国厚見郡西野村(現在の岐阜県岐阜市西野町)に移ってこの地を領した。 宣高は、衰微した身の上で祖先の名を顕わすことをできないことを恥じ、「河野」の称号を改めようと考えていた。ある時「土岐の郡司」に謁した際、「土岐の郡司」は、貴殿は古の名家であるので、本来私が同席できる方ではないのだと述べた。宣高は存念を述べて「河野」に代わる称号を請い、「土岐の郡司」はこれを辞退したものの、ちょうど蹴鞠の庭の柳がひときわ鮮やかであったことから「一柳」を氏とすることを提案し、宣高はこれを喜んで一柳を家号としたという。 没年・享年・法名・葬地の記載はない。なお『寛永諸家系図伝』(以後『寛永譜』)では「土岐の郡司」を土岐氏とし、法名「浄珍」が載る。
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