「鉄道王」への道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 15:49 UTC 版)
「エドワード・ヘンリー・ハリマン」の記事における「「鉄道王」への道」の解説
「1901年恐慌」も参照 1881年、ハリマンはオンタリオ湖沿岸にある破産した鉄道会社を買収し、会社を再建した後にペンシルバニア鉄道へ権利を売却し莫大な利益を得た。1883年にはイリノイ・セントラル鉄道の経営に参加した。 1893年恐慌のなかでユニオン・パシフィック鉄道の再建に成功し、1897年、同鉄道の執行委員長に就任し、1898年5月まで在任した。また、この頃にユニオン・パシフィックの主導権を確立し、死去するまで会社に影響力を持ち続けた。ほとんど学校教育を受けられなかったハリマンには無骨な面があり、マンハッタンの社交界になじまず、変人扱いされていた。 1899年、アラスカ州沿岸の動植物の研究採取を試みる科学者を後援し、自社の蒸気船「ジョージ・W・エルダー」号を科学者たちに提供している。このアラスカ遠征は、歴史家のウォルター・マクドゥーガル(英語版)によれば、かかりつけ医から休養するよう診断されたハリマンが、富を名声に変化させる方法として、名士中の名士であるセオドア・ルーズベルトを範として、「科学の保護者」にして「紳士的冒険家」たらんことを思いつき、それを実行に移したものであるという。表向きは休暇だったが、ハリマンにとっては、アラスカに鉄道を建設し、さらにベーリング海峡を横断してシベリア鉄道につなぎ、世界をつなぐ鉄道王となる夢を追い求める旅でもあった。以後、ハリマンの周囲では1907年頃までノームの金選鉱鍋の夢と同時にベーリング海峡横断鉄道の話は繰り返された。 1901年にはサザン・パシフィック鉄道を買収し、同社の社長に就任した。このとき、ユニオン・パシフィックとシカゴとを結ぶバーリントン鉄道の支配権をめぐってグレート・ノーザン鉄道会長のジェームズ・ジェローム・ヒルと争い、1901年恐慌の原因をつくった。1903年にはユニオン・パシフィック鉄道の社長に就任した。
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