「取次」と「指南」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/03 04:20 UTC 版)
「取次 (豊臣政権)」の記事における「「取次」と「指南」」の解説
「取次」となった人物は、豊臣政権の奉行人として大名の領国支配に干渉することがあり、場合によっては領国における大名権力の確立を支援することもあった。大名の立場から「指南」と称されることが多いのも、このような事情によっている。「指南」とは今日でいう行政指導であり、それぞれの大名は織豊系城郭の建築技術や太閤検地の施行方法などを「取次」から伝え授けられることによって近世大名への変貌を遂げることができた場合がある。 秀吉の姻戚でもあった側近の浅野長政は、陸奥国の大名伊達政宗にとって「御指南」に相当するところから、政宗は文禄5年(1596年)8月14日付の浅野長政宛書状で、万事について長政を頼み、その指示に対してはいかなる指示であってもしたがうつもりであった旨を書き送っている(『大日本古文書 伊達家文書之二』675号文書)。 しかし、同書状には、長政の「指南」には政宗の知行を自発的に秀吉に進上することまでを含んでおり、他の9か条の不満もあわせ掲げ、長政の「指南」には到底したがえないと結んでおり、彼に対する絶縁状となっている。この書状の内容によって、取次行為が、大名側からは秀吉の内意を受けての行為であると認識されていたことがうかがわれる。したがって、取り次ぐ相手(「御指南」)の意に沿わない行動をとった場合、それはただちに秀吉の知るところとなるだろうという恐怖心を大名側がいだいていたことも充分に考えられる。豊臣政権は、すべての事案が秀吉個人に収斂する体制となっており、「取次」にあたる人物が個々に大名を統制していたのである。 しかし、伊達政宗は、絶縁状の件によって秀吉から何ら処罰されていない。このことにより、「取次は制度ではなく慣習」であり、「取次という慣習の根底にあるものは知音関係」であるとの指摘もある。この指摘に対しては異論もあるが、「取次」ないし「指南」は、必ずしも豊臣政権中枢の政治組織として充分に整備されたものではなく、あくまでも秀吉個人と大名とのあいだを円滑なものとするために設けられた機構であった。
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