「叛徒」認定へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/16 16:22 UTC 版)
「六十一人叛徒集団事件」の記事における「「叛徒」認定へ」の解説
1966年8月、第8期11中全会終了直後に、劉少奇を批判するため康生が取り上げ問題視した。9月には毛沢東への私信で「長年にわたって、劉少奇同志が安子文や薄一波らを自首出獄させた決定に疑問を持っている」と報告した。劉瀾濤は当時中央西北局第一書記だったが、紅衛兵の批判大会に連れ出されたため周恩来に連絡が回り、周恩来は当時の党中央が承知していたと擁護し毛沢東もこれに承認を与えた。 しかし、康生が顧問を務める中央文革小組は「安子文が反党であり、彼ら変節分子の反党の首謀者は劉少奇である」「安子文と薄一波、劉瀾濤らが組織部、監察委員会など主要部門の権力を掌握し、ブルジョワ独裁をおこなった」と紅衛兵と世論を扇動した。病気療養のため広州に避難した薄一波はすぐさま北京に連れ戻されている。 1967年3月16日、党中央は「薄一波、劉瀾濤、安子文、楊献珍らの自主変節問題に関する初歩的調査」を発行し、裏切り者であると決定した。同年2月に人民解放軍の長老らが文革を批判して逆に毛沢東の非難を浴び失脚した二月抗争(中国語版)と共に、劉少奇を更なる窮地に追い込むことになった。
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