“母親”という存在
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 02:05 UTC 版)
若い頃の母・秋子は出版社で翻訳の仕事をし、文学の道を志していたが父・國士との結婚により諦めた。その後生まれた岸田は母に溺愛されて育ったが、12歳の頃に最愛の母を結核で亡くす。その後女優として名が売れ、多方面で活躍するようになったが、以後も母の存在を意識し続けた。 1993年頃、とある人から「女優や執筆業をするのは劇作家である父の影響か?」と尋ねれると、本人は「むしろ母の影響が強いように思います」と答えている。続けて「母の若い頃の日記を見つけてから、その中の一節『どうぞ私の中にある芸術の蕾(つぼみ)が、大きくいきいきと開きますように』が、頭から離れなかった」としている。 1968年に私生活で岸田自身も母となったが、“母親”という存在に特別な感情を抱いていたことが影響し、映画やドラマでの母親役にはあまり関心がなかった。1976年のドラマ『歯止め』で母親役を演じた際、撮影現場でスタッフから「お母さん」と呼ばれたことに冷淡な態度を示した。
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