黒田清隆 人物像

黒田清隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/11 09:01 UTC 版)

人物像

黒田清隆は、伊藤博文など他の総理大臣経験者に比較すると政策立案能力の点では劣っていたが、他に追随を許さない独特の人心掌握力を持った人物であった[24]。度量が広く、明治十四年の政変で対立した大隈重信の入閣交渉や自由民権運動のリーダーであった後藤象二郎の丸め込み工作など、説得交渉では卓越した能力を発揮した[24]。必要があれば、相手がたとえ政敵であっても懸命に説得し、最終的には協力を約束させられる優れた調整能力の持ち主であった[24]。一方、愚直で頑固な硬骨漢という面を併せ持っており、開拓使官有物払下げ事件でも自らの意志を曲げることなく、結局辞任に追い込まれた[24]

酒乱

平生はその手腕を買われていた黒田だが、一度酒を飲むと必ず大暴れする酒乱であったと言われている。前述のように酔って大砲を誤射して死亡者を出したほか、最初の妻を斬殺した疑いもかけられた。また、酒席で暴れ武術家柔術家)としても知られていた木戸孝允に取り押さえられ、毛布でくるまれたうえ紐で縛られて、簀巻き[25]のまま自宅へ送り返された。以来、「木戸が来た」というと大人しくなったという。

黒田の名言

  • 「榎本を殺すのなら、そんな新政府、自分は辞めて坊主になる」― 五稜郭の戦いで降伏した榎本武揚の処分に際し、黒田が同郷の西郷隆盛に榎本の助命嘆願した際のことば[24]
  • 「大隈どん、貴君の片足を失ったのは、私の片足を失ったより残念じゃ」― 大隈遭難事件(爆弾テロ事件)で右足を切断した大隈重信を見舞ったときのことば[24]

注釈

  1. ^ 学術誌、研究書、文部科学省検定教科書における歴史人物としての表記は「黒田清隆」、御署名原本における本人の署名は「黒田清隆」、『枢密院高等官履歴』における枢密院書記による氏名手記も「黒田清隆」である。印刷物では本字に統一するという慣例に従い、印刷局刊『職員録 明治21年(甲)』(1888年3月31日現在)における内閣総理大臣名の表記は「黒田淸隆󠄁」、同時代の新聞紙上での表記は「黒田淸隆󠄁」ないし「黑田淸隆󠄁」である。
  2. ^ 明治43年10月19日の報知新聞にも、大久保の部下であった千坂高雅が、清の妹から娘が聞いた話として、黒田による殺人であったことを断言しているインタビューが掲載されているが、10月27日に「記者の筆記に誤りがあった」として全文が取り下げられている。同年11月26日には「大久保はよく人に調べさせて、証拠を持った上で弁護されたのだ」として擁護する小牧昌業の主張が掲載されている[13]
  3. ^ 島津久光が左大臣となったものの、大久保政権と対立して隠退した事例を指す
  4. ^ 新聞によると死亡時の清の年齢は33。

出典

  1. ^ a b 日本大百科全書(ニッポニカ)「黒田清隆」(コトバンク)
  2. ^ 黒田清隆|近代日本人の肖像”. 近代日本人の肖像. 2022年3月2日閲覧。
  3. ^ 醍醐龍馬 2022, p. 135.
  4. ^ a b 醍醐龍馬 2022, p. 138.
  5. ^ 北海道総務部行政資料室編『開拓の群像 下巻』P 214
  6. ^ 醍醐龍馬 2022, p. 140.
  7. ^ 醍醐龍馬 2022, p. 143.
  8. ^ 醍醐龍馬 2022, p. 143-144.
  9. ^ 醍醐龍馬 2022, p. 144-145.
  10. ^ 醍醐龍馬 2022, p. 146.
  11. ^ 醍醐龍馬 2022, p. 146-147.
  12. ^ 井上高聡「開拓使による海外留学生派遣意図の変遷」『北海道大学大学文書館年報』第14巻、北海道大学大学文書館、2019年、ISSN 1880-9421 
  13. ^ 佐々木克, ed (2004-11-10). 大久保利通. 講談社. pp. 65-69、80-82 
  14. ^ 木曽朗生「明治十四年の政変の真相 (1)」『架橋』第6号、長崎大学教育学部政治学研究室、2005年3月、31-210頁、NAID 120006970634 
  15. ^ 赤木須留喜「明治国家における内閣制度と行政制度」『年報行政研究』第1992巻第27号、日本行政学会、2012年、89-92頁、doi:10.11290/jspa1962.1992.27_77ISSN 2187-0381 
  16. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 黒田清隆」 アジア歴史資料センター Ref.A06051168300 
  17. ^ 元勲優遇ノ詔」 アジア歴史資料センター Ref.A14110275200 
  18. ^ a b 伊藤之雄元老の形成と変遷に関する若干の考察--後継首相推薦機能を中心として」『史林』第60巻第2号、史学研究会、1977年、241-263頁、doi:10.14989/shirin_60_241 
  19. ^ a b 小林吉弥 (2019年5月23日). “歴代総理の胆力「黒田清隆」(2)酒乱で妻を殺害したと風評が…”. エキサイトニュース. https://www.asagei.com/excerpt/126655 2021年2月12日閲覧。 
  20. ^ a b c 『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 明治・大正篇』 竹内正浩 実業之日本社 2017、黒田清隆の章
  21. ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、589頁。ISBN 978-4-06-288001-5 
  22. ^ a b c d 平成新修旧華族家系大成上p570
  23. ^ http://hoppojournal.sapolog.com/e470399.html
  24. ^ a b c d e f 池上彰「池上彰と学ぶ日本の総理 黒田清隆」
  25. ^ 北海道開拓の先覚者達(4)~黒田清隆・榎本武揚~”. 財界さっぽろ (2013年7月15日). 2021年2月12日閲覧。
  26. ^ 桂四郎への書状
  27. ^ 『風雲回想録』p.55
  28. ^ 『官報』第1134号「叙任及辞令」1887年4月14日。
  29. ^ 『官報』第3988号「叙任及辞令」1896年10月12日。
  30. ^ a b 『官報』第5146号「叙任及辞令」1900年8月27日。
  31. ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
  32. ^ 『官報』号外「詔勅」1889年11月1日。
  33. ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
  34. ^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
  35. ^ a b c 『官報』第1156号「叙任及辞令」1887年5月10日。






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