豊川稲荷 概要

豊川稲荷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/05 04:08 UTC 版)

概要

正式の寺号は妙厳寺(みょうごんじ)[1]。詳しくは「円福山 豊川閣 妙厳寺」(えんぷくざん とよかわかく みょうごんじ)と称する寺院である[広報 1]境内に祀られる秘仏「豊川吒枳尼真天(だきにしんてん)」の稲穂を担いだ姿などから、一般には「豊川稲荷」の名で呼ばれるようになった[2][注釈 1]。豊川稲荷は神社ではないものの、境内の参道には鳥居が立っている[1]日本三大稲荷の1つとされる[2][注釈 2]

北海道・東京都・神奈川県・大阪府・福岡県に、別院(下記)を持つ。また、豊川高等学校を運営している。寺へは商売繁盛などを願う参拝客ら年間約500万人が訪れる[2]

当寺の門前町は稲荷寿司発祥の地の一つとも言われており、周辺には稲荷寿司の店が並んでいる[3][4]

本尊・鎮守

法堂(本尊の千手観音を祀る)
山門(現存最古の建造物、
今川義元の寄進による)
東京別院(江戸参詣所)の山門
奥の院(かつての稲荷本殿、この堂宇が妙厳寺から分離の危機にあった)

妙厳寺の本尊は千手観音である[1][5]。豊川稲荷の「稲荷」とは、境内の鎮守として祀られる吒枳尼天(だきにてん)のことである[1][注釈 3]

吒枳尼天は、インドの古代民間信仰に由来する仏教の女神であるが、日本では稲荷信仰と習合し、稲荷神と同一視されるに至った。妙厳寺では「吒枳尼真天」(だきにしんてん)と呼称する。

沿革

嘉吉元年(1441年)、曹洞宗法王派(寒巌派)の東海義易によって創建[5]室町時代末期、今川義元伽藍を整備した。当時は、豊川(河川名)の近くに広がる円福ヶ丘という高台に伽藍があったが、元禄年間までに現在地に移転した。現存する諸堂は江戸時代末期から近代の再建である。

開山

開祖の東海義易は幼名を岩千代といい、9歳の時に、曹洞宗法王派5世の華蔵義曇の元で仏門に入った。そして、東海地方における法王派の拠点となる普済寺浜松市)で修行し[注釈 4]、その後、諸国の行脚に入った。永享11年(1439年)、荒廃した真言宗寺院・歓喜院(豊橋市)を再建し曹洞宗に改め、その2年後、豊川の円福ヶ丘の地に妙厳寺を建立する。存命中に妙厳寺の跡を次世に譲り、再び歓喜院に隠栖した。

稲荷信仰

前述のとおり、豊川稲荷は吒枳尼天を鎮守とする。

縁起によると、鎌倉時代の禅僧・寒巌義尹(妙厳寺では法王派の法祖として尊崇)が入し、文永4年(1267年)、日本へ船で帰国の途上、吒枳尼天の加護を受けたのがきっかけとなり、このを護法神として尊崇するようになったとされる。

その後、寒巌の6代目の法孫にあたる東海義易が妙厳寺を創建するに際し、寒巌自作の吒枳尼天像を山門の鎮守として祀ったといわれる。豊川吒枳尼天の姿は、白狐の背に乗り、稲束をかついで宝珠を持ち、岩の上を飛ぶ天女の形である。

また、俗説であるが、平八狐を祀っているともいわれている。妙厳寺開山の時、平八郎と名乗る翁の姿をしたがやってきて、寺男として義易によく仕えた。義易が入寂した後は愛用の釜を遺して忽然と姿を消したという。今もこの釜は本殿奥に安置されている。

戦国時代になると、三河領主の今川義元、徳川家康から外護を受け、また、九鬼嘉隆などの武将からも帰依を受けた[注釈 5]。海上交通の守護神は四国の金毘羅宮が知られるが、毛利水軍の勢力範囲のため、嘉隆は、家康の領内にあり容易に祈願できる豊川稲荷を信仰したのではないかといわれる。

江戸時代になると、大岡忠相渡辺崋山からの信仰を受け、立身出世や盗難避けの神として江戸の庶民からも信仰されるようになり、文政11年(1828年)には、大岡邸の一角を借りて江戸参詣所(後の東京別院)が創建された。

江戸時代末期には東海道から豊川稲荷へ参拝するため、現在の愛知県豊橋市と豊川市に石の鳥居が立てられた[1]

皇族においては有栖川家等も帰依し、明治初年に「豊川閣」の篇額を寄進したことから、豊川閣とも呼ばれるようになる。

神仏分離令

豊川吒枳尼真天

1871年明治4年)、神仏分離令に基づき、妙厳寺にも神仏区別の厳しい取り調べが及ぶが、翌年には稲荷堂をそのまま寺院鎮守として祀ることが認められる[6][注釈 6]。しかし、それまで境内の参道に立ち並んでいた鳥居は撤去され、「豊川稲荷」「豊川大明神」の呼称も使われなくなった。以降は「豊川吒枳尼真天」と号するようになる(ただし、間もなく通称として「豊川稲荷」と呼ぶことは復活する)。

なお、現在地に鳥居が立ったのは戦後であるが、この鳥居は1930年昭和5年)に敷地内に移転・保管されていた江戸時代末期の東海道にあった鳥居である[1]

また、江戸時代に全国の寺社に吒枳尼天を勧請していた、愛染寺(伏見稲荷本願所)が廃寺になったことにより、明治以降は豊川稲荷が寺院への吒枳尼天勧請の中心的な役割を担うようになる。

全国の稲荷神社は京都の伏見稲荷を総本社としているが、豊川稲荷は神社ではなく寺院であり、上述したように、信仰対象は「稲荷」と通称されてはいるものの、稲荷神そのものではなく、吒枳尼天である。

史料上からの解釈・豊川稲荷という名称の起源

江戸幕府の朱印状には、すべて「三河国宝飯郡豊川村妙厳寺寺領」となっており、豊川稲荷と正式に呼称されていた事実は確認できない。また、明治4年の西大平藩管内三河国豊川村妙厳寺境内豊川明神神仏区別(太政官)において、題名には「妙厳寺」または「豊川明神」と記載されており、本文中に初めて「豊川稲荷」という呼称が登場する。それによると、6、70年以来、土地の名前の由来により、豊川明神または豊川稲荷と呼称、伏見稲荷社の触下にてもない、と説明している。


注釈

  1. ^ 1954年昭和29年)4月1日から40日間の秘仏「豊川吒枳尼真天(だきにしんてん)」のご開帳を開催した[2]
  2. ^ 三大稲荷の選定には諸説あり一定していない。豊川稲荷では他の2箇所を伏見稲荷大社、祐徳稲荷神社としている(稲荷神#信仰も参照)[要出典]
  3. ^ リンク先のページは「荼枳尼天」の表記であるが、このページは妙厳寺の表記に合わせる。
  4. ^ 東海地方のこの門流を特に「普済寺十三門派」と呼ぶ。義易を初め、普済寺の十三人の高弟がそれぞれ寺院を創建・再建し、この地方における曹洞宗の普及を進めた[要出典]
  5. ^ 織田信長豊臣秀吉が信仰したともいわれるが、確かな記録にあることではない[要出典]
  6. ^ 大岡越前守は晩年に1万石を拝領し三河・西大平藩の藩主となり、豊川は西大平藩の領地となった。この取り調べの際に、新政府と妙厳寺の間に入ったのも西大平藩である(廃藩置県まで)[要出典]

出典

  1. ^ a b c d e f g h 宮沢崇志 (2018年1月23日). “ぐるり東海 愛知・豊川稲荷通信 「稲荷」でも実は「お寺」”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 朝刊 名古屋共通版 
  2. ^ a b c d 吉田幸雄 (2016年10月24日). “現場から 豊川稲荷の秘仏ご開帳 期待高まる にぎわい創出 地域で模索”. 中日新聞 (中日新聞社): p. 朝刊 県内版 14 
  3. ^ 『るるぶ愛知 名古屋 知多 三河 瀬戸'24』JTBパブリッシング、2023年、119頁。 
  4. ^ 地球の歩き方編集室 編『地球の歩き方 日本 2023~2024』2022年、516頁。 
  5. ^ a b 新編豊川市史編集委員会 2011, p. 767.
  6. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1989, p. 1310.
  7. ^ 吉田幸雄 (2017年1月5日). “豊川稲荷 三が日145万人 昨年比2万人増 もりあげ隊も活躍”. 中日新聞 (中日新聞社): p. 朝刊 東三河版 18 
  8. ^ 吉田幸雄 (2016年11月16日). “瑞祥殿 完成し法要 豊川稲荷 秋季大祭で利用へ”. 中日新聞 (中日新聞社): p. 朝刊 東河総合版 21 
  9. ^ 木造地蔵菩薩立像”. 愛知県. 2018年12月11日閲覧。

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