谷隼人
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来歴
経済的な事由に加え、軍人である父の「姉3人に妹1人という女所帯で育つと、女々しくなる」という意向から、母の実家がある長崎県佐世保市で母と姉3人、谷は父と妹、それぞれ別居生活を送ることとなる、小学校5年生の時に、防衛庁勤務の父親の転勤に伴い母と妹の4人で佐世保から東京都中野区へ転居。中学校は中野区立第八中学校へと進み、2年次に新設の中野区立北中野中学校へ編入[3]。谷自身は「俺は生まれは九州鹿児島で育ちは長崎県佐世保」と話している[4]。
1961年、中学校3年生の夏休み、テレビドラマ『少年ケニヤ』に本名の岩谷 肇名義で出演[5]。1963年の春、かねてより憧れていた石原裕次郎が所属する日活のニューフェイス試験に合格したのを機に、聖パウロ学園高等学校を2年で中退し同社の映画に出演したが、ほどなく退社(→#エピソード)。これらの話は全部デタラメで、谷自身は「勉強が好きじゃなくて、夜の商売をやっていたから高校を中退したんです。喫茶店やって、代々木公園でコックの見習いみたいなこととか、新宿で黒服の下っ端とか、夜の商売をやってるときに日活の人が声をかけて日活に何ヶ月かいたんです。ニューフェイスってことを言ってますけど、ニューフェイスじゃないです。日活はほとんどアルバイトなんですよ。だから、ぜんぜん何もない」などと話している[4]。同期?には山本陽子がいた。後に東映入りした後も、役者でメシが食えるのか不安で、暫く夜の商売を続けていたという[4]。後に『キイハンター』等で、女性ファンが急増しモテモテで遊び放題になったが、この水商売時代の方がさらにモテて、若かったし一晩に5人の相手をしたことがあるなどと話している[4]。
代々木や渋谷のスナックで働いているところを「役者になれば金になる」と思い即答し[6]、1966年[7]、東映に入社[4][6][7]。東映の重役にスカウトされと書かれた文献もあるが[6][7]、谷は「テアトル・ド・ポッシュの川口義宏さんのレコ(彼女)がやってる渋谷の喫茶店で働いてて、そこで川口さんとホリプロの小林信吾さんにスカウトされた」と話している[4]。川口との小林が「お前本名は?」というから「岩谷です」と答えたら、二人に「堅いなあ、生まれは?」と言われ、「鹿児島の隼人に近い所です」と言うと「うーん…何かねえかなあ、岩谷隼人…あ!岩いらねえや、谷隼人」と3分で芸名が決まったという[4]。谷 隼人の芸名で、1966年に、緑魔子主演・降旗康男の初監督映画『非行少女ヨーコ』で、谷、大原麗子、石橋蓮司の3人で、新宿でハイミナールをやってラリる気の弱い予備校生役で準主演デビュー[6][7]。その風貌から和製アラン・ドロンとうたわれ[4]、デザイナー・テッド・ラピドスの日本におけるイメージ・キャラクターに選ばれた。二番目の妻となる松岡きっこは、東映入りしてすぐに、東映から鈴木淳と有馬三恵子のところにボイストレーニングに行かされた時に初めて会った[4]。東映アクションスターの一人となり[5]、「網走番外地シリーズ」、「不良番長シリーズ」、「夜の歌謡シリーズ」などで活躍[7]。「不良番長シリーズ」出演経緯は、スティーブ・マックイーンが好きでバイクの運転が得意だったからだという[4]。
1968年からスタートしたテレビドラマ『キイハンター』に、丹波哲郎・千葉真一らと共に主演の一人として出演。愛嬌あるキャラクターとアクションでお茶の間の人気スターとなる[7]。1968年暮れにデパートの男性服モデルとして登場すると急激に女性人気が上がり[8]、『月刊明星』のようなアイドル雑誌から取り上げられるようになり[9]、『不良番長』の撮影記事なども掲載された[9]。『キイハンター』の後番組『アイフル大作戦』(1973年 - 1974年)、『バーディー大作戦』(1974年 - 1975年)にも主要キャストの一人としてレギュラー出演[7]。通算7年間、丹波と共にTBS土曜9時枠の連続ドラマの顔として活躍した。この合間に主演映画『非情学園ワル』(1973年)では27歳にして高校生役を演じ[7]、翌1974年にかけてシリーズ化された[7]。三作目の『非情学園ワル ネリカン同期生』(1974年3月30日公開)が不入りで[4]、責任を取って東映を退社した[4]。
『バーディー大作戦』の後番組『Gメン'75』への出演を打診されたが、『寺内貫太郎一家2』の出演によってホームドラマへの関心が沸き始めアクション俳優からの脱皮を図り辞退する。このことが俳優からタレントへとポジションの変化に繋がる転機となった。以降は各種のドラマに加えてバラエティ番組を中心に活躍[7]。1986年から1989年にかけて『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』にレギュラー出演、攻撃隊長を演じて話題を呼んだ[7]。令和版でも攻撃隊長役を務める[10]。
注釈
出典
- ^ a b c “谷隼人”. グッドフェローズ. narrow. 2017年4月10日閲覧。
- ^ a b c d “谷隼人”. 日本タレント名鑑. VIPタイムズ社. 2017年4月10日閲覧。
- ^ 『近代映画』1969年7月号、近代映画社、102 - 103頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 吉田豪「谷隼人インタビュー 『だから言ってるじゃん、ハメる前にハメられたって』」『超 人間コク宝』コアマガジン、2020年、293-67頁。ISBN 978-4-86653-435-0。
- ^ a b 「特集企画 スーパー戦隊の神業 作品をひきしめる名優陣」『スーパー戦隊 Official Mook 20世紀』《1991 鳥人戦隊ジェットマン》講談社〈講談社シリーズMOOK〉、2018年5月10日、31頁。ISBN 978-4-06-509613-0。
- ^ a b c d 「希望対談/No.245/谷隼人・森田健作 『ガールフレンドよりかわいいヤツは…』」『月刊平凡』1969年7月号、平凡出版、76頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 杉作J太郎、植地毅「谷隼人インタビュー」『不良番長浪漫アルバム』徳間書店、1999年、60-67頁。ISBN 9784198643546。
- ^ 「はばたけ新人たち '69年度映画新人賞ニュースター5! 『目標は健さんだぞ!』谷隼人(東映)」『月刊明星』、集英社、1969年3月号、146頁。
- ^ a b 「スクリーンでふんばる3人男 スリーヤング・ガイ 『オレのストリップ見てよ!』谷隼人」『月刊明星』、集英社、1969年12月号、158頁。
- ^ “令和版「風雲!たけし城」谷隼人隊長34年前の指揮棒持参、ゴルフクラブのグリップ付き理由語る - 芸能 : 日刊スポーツ”. nikkansports.com (2023年4月20日). 2023年4月20日閲覧。
- ^ a b c d e 「谷隼人・岡美智子夫妻、離婚の真相 "反家庭"にあこがれた夫と、寂しがり屋で浪費に走った妻」『週刊平凡』1973年8月30日号、平凡出版、56-59頁。
- ^ a b c d e 「年期のはいった婚約発表 =やっと実った谷隼人の愛=」『サンデー毎日』1971年6月20日号、毎日新聞社、42頁。
- ^ a b 今村三四夫 (1971年6月5日). “今週のことども”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 1
- ^ 『夫婦直撃インタビュー!人生いろいろ 夫婦もいろいろ』谷隼人・松岡きっこご夫妻が登場!
- ^ 磯部正和 (2023年4月16日). “たけし「隊長は谷さんじゃないとダメだ」 バラエティと無縁の映画スターが推された理由 伝説のテレビ番組「風雲!たけし城」”. まいどなニュース. 2023年4月16日閲覧。
- ^ a b c d 「SPECIAL INTERVIEW '87 海津亮介」『スーパー戦隊 Official Mook 20世紀』《1987 光戦隊マスクマン》講談社〈講談社シリーズMOOK〉、2019年5月10日、20-21頁。ISBN 978-4-06-513713-0。
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