西ローマ帝国 経済とのかかわり

西ローマ帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/07 05:53 UTC 版)

経済とのかかわり

ローマとイタリア半島では、生産性の高い東方地域が属州へ組み込まれると徐々に交易や高級作物の生産へシフトしたが、経済の重心は次第に東へ移った。

既にイタリア半島では五賢帝時代から産業の空洞化が始まっており、ローマ帝国末期を通じて、西ローマ帝国が経済的な下降線を辿っていった。中央の権力が弱まると、国家として国境や属州を制しきれなくなり、致命的なことに、地中海をも掌握できなくなった。歴代のローマ皇帝は蛮族を地中海へと立ち入らせなかったが、ヴァンダル族はとうとう北アフリカを征服してしまう。

これは西ローマ帝国の農業において、深刻なダメージとなった。ローマ帝国は帝政期以前より、イタリア半島ではオリーブや葡萄や食肉などの貴族の嗜好品を中心とする農業を営んでおり、主食たる小麦についてはシチリアや北アフリカなどの属州に依存していた。ところが地中海に蛮族の侵入を許した事によって、この農業体制が崩壊してしまうのである。この経済的な衰退が、とどのつまりは西ローマ帝国崩壊の伏線となったのである。古代においては国民総生産と国家の税収のほとんどは農業に由来している。税収が不十分では、高くつく職業的な軍団を維持することも、雇い入れた傭兵を当てにすることもままならなかったからである。西ローマ帝国の官庁は、あまりにも広すぎる土地を、あまりにも乏しい財源によって賄わざるを得なかった。西ローマ帝国の諸機関は、不安定な経済力に連動してつぶれて行った。たいていの蛮族の侵入者は、征服した土地の3分の1を制圧されたローマ系住民に要求したが、このような状況は、同じ地方を異なる部族が征服するたび、いよいよ増えていったことであろう。

イタリア半島の農業は、嗜好品の生産から主食の生産へと転換すべきであったが、それは無理であった。経済力と政治的な安定性が欠けていたために、念入りに開発された何十平方キロメートルもの数々の土地が放棄されていった。耕地の放棄は経済的に手痛い一撃となった。こうなったのも、生産力を維持するためには、単純な保守として、敷地にある程度の時間と資金を投入することが必要だったからである。そもそもイタリア半島の農地の生産性はシチリアや北アフリカよりも劣っていたがために、奢侈品の生産へと転換した歴史がある。

これはすなわち、不幸にして、東ローマ帝国による西ローマ帝国の建て直しの試みは無理であり、地方経済が大幅に衰退していたために、新たに奪還した土地を保持することは、あまりにも高くつきすぎるということを表していた。

その一方で、エジプトやシリアなどの穀倉地帯を確保し、オリエントとの交易ルートを押さえていた東ローマ帝国は、とりわけコンスタンティヌス大帝コンスタンティウス2世のような皇帝が、莫大な金額を注ぎ込んだこともあり、さほどの経済的な衰微は起きなかった。


注釈

  1. ^ 例えばローマ市では443年に地震で破損したコロッセオの修復が行われているが、その際にコロッセオに設置された碑文には「平安なる我らが主、テオドシウス・アウグストゥス(テオドシウス2世)とプラキドゥス・ウァレンティニアヌス・アウグストゥス(ウァレンティニアヌス3世)のために、首都長官ルフィウス・カエキナ・フェリクス・ランバディウスが(以下略)」と東西両皇帝の名が記されている[6]
  2. ^ 正式にはロムルス・アウグストゥス。アウグストゥルスは小アウグストゥスの意。
  3. ^ 例:シアグリウス支配下のソワソン管区、アウレリウス・アンブロシウス支配下のブリタンニア
  4. ^ このことからオドアケルをローマ帝国の初代イタリア王(rex Italiae)と見なす場合もあるが、オドアケルをイタリア王に含めるかについては議論がある。
  5. ^ ゼノンはネポスの風評が悪いことを気にしており、ネポスを全面的には支持していなかった[21]
  6. ^ その後もガリア北部のシアグリウスがネポスの名で貨幣を鋳造していたが、シアグリウスも486年にフランク族に敗れて処刑された。
  7. ^ 一般の西洋史ではロムルス・アウグストゥルスが「最後の皇帝」として言及され、たいてい亡命後のユリウス・ネポスは重要視されていない。
  8. ^ ただし、東ローマ皇帝が西方における覇権を完全に喪失したわけではない。東ローマ皇帝は8世紀半ばまでラヴェンナおよびローマ、さらに11世紀まで南イタリアマグナ・グラエキア)という西方領土を領有し続けた。また、ユスティニアヌス1世ほどの成功者は出なかったにせよ、12世紀マヌエル1世のように、イタリア遠征を行って西ローマ帝国を支配しようと試みる皇帝はいた。
  9. ^ 東方正帝は長男のテオドシウス英語版
  10. ^ この経過について、アラブ勢力の侵入を契機に各地にテマが成立し、それらは「半独立政権」の様相を呈したとしてそれまでの東ローマの国家体制との連続性を否定した上で、その「テマを地方行政組織に編成しなおすことによって新しい国家、ビザンツ帝国が誕生する」と捉える文献[43] もある。
  11. ^ 例外はブリタニアアフリカである[44]
  12. ^ イタリア語フランス語スペイン語ポルトガル語ルーマニア語ロマンシュ語など。

出典

  1. ^ [西ローマ帝国]『ブリタニカ国際大百科事典』
  2. ^ a b c [西ローマ帝国]『世界大百科事典』
  3. ^ a b c d [西ローマ帝国]『日本大百科全書』
  4. ^ a b [西ローマ帝国]『百科事典マイペディア』
  5. ^ a b パランク1976、pp.126-127。
  6. ^ ラテン語碑文で楽しむ古代ローマ、pp.232-233。
  7. ^ 南川2015、pp.36-46。
  8. ^ 南川2015、pp.45-57。
  9. ^ 尚樹1999、p.60。
  10. ^ 尚樹1999、pp.62-63。
  11. ^ オストロゴルスキー2001、p.117。
  12. ^ a b 尚樹1999、pp.79-80。
  13. ^ a b 南川2013、p.173。
  14. ^ 尚樹1999、p.89。
  15. ^ オストロゴルスキー2001、pp.79-80。
  16. ^ バラクロウ2012、p.37。
  17. ^ バラクロウ2012、pp.47-48。
  18. ^ バラクロウ2012、p.56。
  19. ^ シンメルペニッヒ2017、p.54。
  20. ^ 南川2018、p.66。
  21. ^ a b 尚樹1999、p.130。
  22. ^ a b オストロゴルスキー2001、p.107。
  23. ^ a b c リシェ1974、p.90。
  24. ^ 「テオドリック(テオドリクス)大王」『西洋中世史事典
  25. ^ 「テオドリック」『西洋古典学事典』。
  26. ^ グラール2000、p.77。
  27. ^ マラヴァル2005、pp.84-85。
  28. ^ a b オストロゴルスキー2001、p.86。
  29. ^ 尚樹1999、pp.157。
  30. ^ オストロゴルスキー2001、p.120。
  31. ^ マラヴァル2005、p.84。
  32. ^ ギボン1955、p.36
  33. ^ Ernst Stein, "Historie du Bas-Empire"
  34. ^ 世界の歴史11、pp.40-41。
  35. ^ オストロゴルスキー2001、p.105。
  36. ^ 世界の歴史11、p.33 および p.39。
  37. ^ ヨーロッパ歴史百科、p.78。
  38. ^ マラヴァル2005、p.99。
  39. ^ 尚樹1999、pp.221。
  40. ^ 井上1990、p.94。
  41. ^ 世界の歴史11、p.43。
  42. ^ ガッケン・エリア教科事典 第3巻 世界歴史、pp.190-191
  43. ^ 世界の歴史11(1998年)、pp.59-60。
  44. ^ a b c d ヨーロッパの歴史、p.85。
  45. ^ ピレンヌ1960、p.46。
  46. ^ アンドレ・モロワ 著、桐村泰次 訳『ドイツ史』論創社、2013年、16頁。ISBN 9784846012731 
  47. ^ a b c [言語と方言]『西洋中世史事典
  48. ^ 成瀬治『世界歴史大系 ドイツ史1』山川出版社、1997年、133頁。ISBN 9784634461208 
  49. ^ a b J. B. Bury, History of the Later Roman Empire: From the Death of Theodosius I to the Death of Justinian, ch.12
  50. ^ a b [ローマ史]『ブリタニカ国際大百科事典』、TBSブリタニカ
  51. ^ a b c ヨーロッパ歴史百科、p.79。
  52. ^ パランク1976、p.126。
  53. ^ 尚樹1999、pp.136-137。
  54. ^ パランク1976、p.130。
  55. ^ ミシェル2016
  56. ^ Barnes, T. D. (1983). Martindale, J. R.. ed. “Late Roman Prosopography: Between Theodosius and Justinian”. Phoenix 37 (3): 248–270. doi:10.2307/1088953. ISSN 0031-8299. https://www.jstor.org/stable/1088953. 






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