甲州征伐
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戦後
海津城に入った森長可は近隣諸将を鎮撫し、上杉景勝の侵入を防ぎつつ、一方では上杉氏への攻勢を強めていた。5月27日には柴田勝家らの北国勢の支援のために信越国境を越えて、春日山城を指呼の間に望む越後の二本木(上越市)辺りまでに乱入。その報を受けた上杉景勝は魚津城救援から春日山城に引き返す必要に迫られることとなった。しかし、本能寺の変で織田信長が討たれると、森長可は海津城を捨て本領地に逃げ帰り、河尻秀隆は天正壬午の乱にて武田旧臣の三井弥一郎により討ち取られた。そのため、武田遺領は一時的に政治的・軍事的空白状態となった。
滝川一益、北条氏政のその後の動きは神流川の戦いを、徳川家康、氏政、真田昌幸のその後の動きは天正壬午の乱を参照。
なお徳川家康が召抱えた武田の遺臣達は、天正壬午の乱や軍制再編などで、徳川家に貢献した。特に依田信蕃は信濃・甲斐に家康を手引きし、その占領に貢献している。
小説
脚注
参考文献
- 『山梨県史 通史編2 中世』
- 小和田哲男「信長と同盟、今川・武田氏を撃破」『歴史群像シリーズ 徳川家康』学習研究社、1989年
- 谷口克広『信長軍の司令官』中央公論新社中公新書1782、2005年:ISBN 4-12-101782-X
- 斎藤慎一『戦国時代の終焉』中央公論新社 中公文庫1809、2005年、ISBN 4-12-101809-5
- 武田氏研究会編『武田氏年表 信虎・信玄・勝頼』高志書院)、2010年
- 平山優『中世武士選書5 穴山武田氏』戎光祥出版、2011年
- 丸島和洋「仁科信盛」「小山田昌成」 柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年
関連文献
- 平山優『武田氏滅亡』KADOKAWA〈角川選書 580〉、2017年2月24日。ISBN 978-4-047-03588-1。(電子版あり)
- ^ なお、西上作戦については上洛を意図を巡って議論が存在する。
- ^ https://www.facebook.com/ToyokeizaiOnline+(2023年7月9日).+“武力に優れ外交では凡愚の武田勝頼が打った悪手”. 東洋経済オンライン. 2023年7月30日閲覧。
- ^ “武田勝頼の最期と真田昌幸の決断”. shuchi.php.co.jp. 2023年7月30日閲覧。
- ^ “武田勝頼の最期と真田昌幸の決断”. shuchi.php.co.jp. 2023年7月30日閲覧。
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- ^ a b c d 丸島(2015)、p.549
- ^ 丸島和洋「武田勝頼と一門」『武田勝頼のすべて』新人物往来社、2007年
- ^ a b 丸島(2015)、p.235
- ^ 『武田三代軍記』
- ^ 柴辻俊六「一条信龍」「一条信就」(柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年)p.99
- ^ “最後はみずから妻の首を落とすはめに…武田氏滅亡のとき忠臣が涙ながらに勝頼に指摘したリーダー失格の理由 一門の屍を山野にさらすことになるとは、後代までの恥辱 (4ページ目)”. PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) (2023年7月9日). 2023年7月30日閲覧。
- ^ “最後はみずから妻の首を落とすはめに…武田氏滅亡のとき忠臣が涙ながらに勝頼に指摘したリーダー失格の理由 一門の屍を山野にさらすことになるとは、後代までの恥辱 (5ページ目)”. PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) (2023年7月9日). 2023年7月30日閲覧。
- ^ “最後はみずから妻の首を落とすはめに…武田氏滅亡のとき忠臣が涙ながらに勝頼に指摘したリーダー失格の理由 一門の屍を山野にさらすことになるとは、後代までの恥辱 (5ページ目)”. PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) (2023年7月9日). 2023年7月30日閲覧。
- ^ “最後はみずから妻の首を落とすはめに…武田氏滅亡のとき忠臣が涙ながらに勝頼に指摘したリーダー失格の理由 一門の屍を山野にさらすことになるとは、後代までの恥辱 (4ページ目)”. PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) (2023年7月9日). 2023年7月30日閲覧。
- ^ “最後はみずから妻の首を落とすはめに…武田氏滅亡のとき忠臣が涙ながらに勝頼に指摘したリーダー失格の理由 一門の屍を山野にさらすことになるとは、後代までの恥辱 (5ページ目)”. PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) (2023年7月9日). 2023年7月30日閲覧。
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- ^ “最後はみずから妻の首を落とすはめに…武田氏滅亡のとき忠臣が涙ながらに勝頼に指摘したリーダー失格の理由 一門の屍を山野にさらすことになるとは、後代までの恥辱 (5ページ目)”. PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) (2023年7月9日). 2023年7月30日閲覧。
- ^ 以上の依田についての記述は平山優「天正壬午の乱」より、原史料『依田記』による。
- ^ 記録によってはこの時、寺の和尚である快川紹喜は「心頭滅却すれば火も自ら涼し…」という辞世を残したとされるが、これは後世の創作と考えられる。詳しくは快川紹喜のページを参照。
- ^ 『天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史』より。処断された者は『甲陽軍鑑』『甲乱記』『信長公記』『当代記』『寛政重修諸家譜』『高野山成慶院過去帳』を参考にしている。
- ^ 柴辻俊六「織田政権と真田昌幸」(『日本歴史』566号、1995年)
- ^ 丸島和洋「真田弁丸の天正一〇年」(『武田氏研究』52号、2015年)
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