済 済の概要

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/25 14:31 UTC 版)

倭の五王系譜・天皇系譜
宋書』倭国伝 梁書』倭伝
 
 
 
 
 
 
 

(421, 425年)

(438年)
 

(443, 451年)
 
 
 
 
 
 

(462年)

(478年)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日本書紀』の天皇系譜
(数字は代数、括弧内は和風諡号)
15 応神
(誉田別)
 
 
16 仁徳
(大鷦鷯)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17 履中
(去来穂別)
18 反正
(瑞歯別)
19 允恭
(雄朝津間稚子宿禰)
 
 
 
 
 
 
 
 
20 安康
(穴穂)
21 雄略
(大泊瀬幼武)

の父で、「倭の五王」の1人。第19代允恭天皇に比定する説が有力視される。

記録

宋書

宋書』列伝
夷蛮伝 倭国の条(宋書倭国伝)では、元嘉20年(443年)に「倭国王」の済はに遣使奉献し、と同様に「安東将軍 倭国王」に任じられたとする[2][3]
また元嘉28年(451年)には、済の爵号に「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」が加えられ、「安東将軍」は元のままとされた。さらに済がすすめた23人は軍(将軍または軍号の意か)・郡(太守)に任じられた。その後、済が死に世子のが遣使貢献したとする[2][3]
倭王武の上表文には、済が高句麗を討とうとしたが、その直前に亡くなったと記されている[注釈 1]
『宋書』本紀
文帝紀 元嘉20年(443年)是歳条では、河西国・高麗国・百済国・倭国が遣使して方物(地方名産物)を献上したとする。
また文帝紀 元嘉28年(451年)7月甲辰条では、「安東将軍 倭王」の倭済が「安東大将軍」に進号されたとする(倭国伝の進号記事と将軍号は異同)[2]
さらに孝武帝大明4年(460年)12月丁未条では、倭国が遣使して方物を献上したとする(済または興の遣使か)。

梁書

梁書』列伝
諸夷伝 倭の条(梁書倭伝)では、「彌」の死後に子の済が立ち、その死後は子の興が立ったとする[4]

南史

南史』夷貊伝 倭国の条(南史倭国伝)では、『宋書』列伝の内容が記述されている。

高句麗王・百済王・倭王の将軍号変遷表[5]
(黄色は第二品、緑色は第三品。色の濃さは同品内の序列を表す)
高句麗 百済
317年 <東晋建国>
372年 鎮東将軍(余句
386年 鎮東将軍(余暉
413年 征東将軍(高璉
416年 征東大将軍(高璉) 鎮東将軍(余映
420年 <建国>
鎮東大将軍(余映)
421年 (安東将軍?(倭讃))
438年 安東将軍(倭珍
443年 安東将軍(倭済)
451年 安東大将軍(倭済)
(安東将軍?)
457年 鎮東大将軍(余慶
462年 安東将軍(倭興
463年 車騎大将軍(高璉)
478年 安東大将軍(倭武
479年 <南斉建国>
鎮東大将軍(倭武)
480年 驃騎大将軍(高璉) 鎮東大将軍(牟都)
490年 鎮東大将軍(牟大
494年 征東大将軍(高雲
502年 <建国>
車騎大将軍(高雲) 征東大将軍(牟大) 征東将軍(倭武)
(征東大将軍?)

考証

済と珍の続柄について

『宋書』の記事では、済は珍との続柄が何も記されていないことから異なる氏族グループではないかという説が呈されてきた。しかし『宋書』文帝紀に『安東将軍倭王倭済』と記されており、済は讃・珍と同じ倭姓を名乗る父系の氏族だと宋の側でも認識していたのではないかとする説がある[6]。ただ、続柄を名乗らないため済・珍は同じ一族ではあるが近い血縁関係ではないとする説があり、『日本書紀』では仁徳天皇以降の王位継承における争いが見えることから、そのような王位を巡る抗争の存在可能性が指摘される[7]。また、特に珍の時代の有力王族として倭隋の存在が見えるため、当時は2つの王族勢力(百舌鳥古墳群古市古墳群)があったとして、済はこの倭隋の系統とする説がある[7]

460年記事について

『宋書』孝武帝紀の大明4年(460年)記事では、倭国の遣使を伝えるが、遣使主体の名前を明らかとしない。これに関して、新王の遣使ならば冊封を受けるのが通例として主体を済とする説がある一方[8][9]、『宋書』倭国伝の興の遣使記事との対応を見る説もある[2]

朝鮮への侵攻について

三国史記』では440年444年に倭が新羅に侵攻したと見えるほか、『日本書紀』の修正紀年でも442年に倭が新羅を討ったとするため、実際に440年代初頭に倭が軍事行動を起こしたとする説がある[7]。配下への叙任が443年から下る451年になって実施されているため、これを軍事行動の論功行賞とも、この頃にようやく済が王位を固めたとも推測される[7]

天皇系譜への比定

日本書紀』・『古事記』の天皇系譜への比定としては、済を允恭天皇(第19代)とする説が有力視される[1]。この説は、「武 = 雄略天皇」が有力視されることから、武以前の系譜と天皇系譜とを比較することに基づく[10][11]。記紀では允恭天皇・安康天皇が相次いで死去する伝承が記されており、武の上表文に「奄喪父兄(にわかに父兄を失う)」と見える記述はこれとも対応する[10]。ただし系譜以外の論証が確かでないことから、音韻・系譜の使い分けによる恣意的な比定を批判する説もある[12]

なお、記紀の伝える天皇の和風諡号として反正天皇までは「○○ワケ」であるのに対し、允恭天皇・安康天皇・雄略天皇に「ワケ」は付かないことなどから、允恭天皇以後の王統(済以後の王統)の変質を指摘する説がある[13]

墓の比定

倭の五王の活動時期において、大王墓は百舌鳥古墳群古市古墳群大阪府堺市羽曳野市藤井寺市)で営造されているため、済の墓もそのいずれかの古墳と推測される[14]。これらの古墳は現在では宮内庁により陵墓に治定されているため、考古資料に乏しく年代を詳らかにしないが、一説に済の墓は市野山古墳(現在の允恭天皇陵)に比定される[11]

また他の考古資料として稲荷台1号墳(千葉県市原市)出土の「王賜」銘鉄剣について、「王」と書くのみで自明な人物であることから、この「王」を済(または珍)に比定する説がある[15][7]。ただし稲荷山古墳出土鉄剣銘文・江田船山古墳出土鉄刀銘文の「大王」とは一線を画する点が注意される[7]

済の爵号について

宋書』には、済の爵号が「安東将軍」とする記録と「安東大将軍」とする異なる記録があり、議論がある。『宋書』夷蛮伝・倭国条は、済は、元嘉20年に「安東将軍 倭国王」に封じられ、元嘉28年に「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」が加号されたが、「安東将軍」は元のままとされた[16]。一方、『宋書』本紀は、元嘉28年に「安東将軍」から「安東大将軍」に進号されたと記している[17]。また、『冊府元亀』巻九六三・外臣部・封冊一も「(宋・文帝元嘉)二十八年七月,安東将軍倭王済,進号安東大将軍」と記述しており、元嘉28年に「安東将軍」から「安東大将軍」に進号されたと記している[18]

済の爵号が「安東将軍」、もしくは「安東大将軍」について、3つの解釈に大別される。

  1. 夷蛮伝・倭国条が正しく、本紀が誤りであり、爵号は「安東将軍」の元のままであるとする説(支持者:池内宏[19]宮崎市定[19]西嶋定生[19]
  2. 本紀が正しく、夷蛮伝・倭国条が誤りであり、爵号は「安東将軍」から「安東大将軍」に進号されたとする説(支持者:高寛敏[19]田中俊明[19]
  3. 夷蛮伝・倭国条と本紀の両方とも正しく、時間差を考慮して、まず「安東将軍」が授与され、まもなく「安東大将軍」に進号されたとする説(支持者:坂元義種[19]吉村武彦[20]荊木美行[20]

現在の日本では、2.もしくは3.が通説である[20]。一方、韓国では、高句麗王が「征東大将軍」、百済王が「鎮東大将軍」を得たのに対し、倭王が「安東将軍」止まりであるならば、国際的地位に大きな見解の差が生じ、高句麗王と百済王が上位、倭王が下位という優劣の序列とも解釈できるため、1.の主張がみられる[21]

朴鍾大は、以下のように主張している[22]

済は宋朝から安東将軍・倭国王として冊封を受けた後、元嘉28年には「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東将軍倭国王」として冊封された。同書(『宋書』)本紀には安東大将軍として追封されたことを記録しているが、錯誤だというのが通説である。…中国南朝が高句麗・百済・倭に冊封した爵号の序列面においても劉宋朝の場合は、高句麗は最初から征東将軍として冊封され、征東大将軍・車騎大将軍・驃驤大将軍の順序で進封されており、百済は最初鎮東将軍に冊封されたが、鎮東大将軍に進封された。倭は最初からずっと低い序列の安東将軍として冊封されただけである。同じ時期の冊封が百済は鎮東大将軍であり、倭は序列が低い安東将軍に過ぎないにも拘わらず、百済を包含する韓半島南部を軍事的に支配したというのは論理的に成立しえない主張である。 — 朴鍾大、倭の五王の上表文と韓日古代史の問題点

延敏洙は、以下のように主張している[23]

ところで、済に除授された爵号が安東大将軍なのであれば、済の死後、王位を継いだ興が大明6年に除授された爵号が安東将軍であるため、前任の王よりも下位の爵号を除授されたことになる。これは中国の王朝の授爵慣例から見て、考えにくいことである。後任の王に特別な欠格事由がない限り、前任の王の爵号と同等、ないしは上位の爵号を除授するのが常例であるためである。列伝に記録されている世祖孝文帝の条によると、「倭王の後嗣である興は、累代の倭王の忠誠を受け継ぎ、外海に宋室の蕃屏をなし、天子の徳化を受けて境域を平安にし、このように丁重に朝貢してきた。今、新たに辺土を守護しているため、爵号を除授し、安東将軍・倭国王とせよ」と称頌の表現を駆使しているように、前任の王よりも下位の爵号が下される事由は見いだせない。この記事を否定しない限り、元嘉28年の倭国王済の安東大将軍説は採りにくい。…このように見ると、倭の五王の時代の倭王たちが、宋朝から除授された将軍号は安東将軍が最高の官品だったといってもよいだろう。倭国王の国際的な地位が、始終、高句麗・百済王よりも下位に置かれていたことは、宋朝側の国際認識であり、現実的な外交路線を反映しているものと考えられる。 — 延敏洙、倭の五王時代の対外関係

石井正敏は、夷蛮伝・倭国条は、元嘉20年に「安東将軍 倭国王」に冊封された済が、元嘉28年に「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号されたことを、「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事。安東将軍如故。」と記しているが、その記事に済が元嘉20年に得た爵号「倭国王」が記されていないことを指摘しており、夷蛮伝・倭国条の済の任官記事「安東将軍故ノ如シ」に着目している[21]。すなわち、「(官爵号)如故(もとノごとシ)」という表現は、同じ夷蛮伝の中における高句麗王および百済王が進号・加号された場合、以前得た爵号を継承する場合、「王」号も必ず「如故」と記している[24]。一方、済の場合、「安東将軍」のみが「如故」とされ、「倭国王」は欠落しており[25]、本来は「如故」称号に「(倭国)王」が含まれていなければならないが、同じ夷蛮伝の中における高句麗王・百済王と比べて表現方法に不可解な相違がある[26]。もう一つ、夷蛮伝・倭国条の元嘉28年条の記事で注目されるのは、ほかならぬ「安東将軍如故」とあることである。『宋書』夷蛮伝や氐胡伝をみると、「如故」とする場合は、爵号のフルネームを記さず、略称を用いるのが一般的であり、高句麗王の場合、「使持節→持節」「散騎常侍→常侍」「都督営州諸軍事→都督」「高句麗王→王」「楽浪公→公」と略称が用いられている[26]。氐胡伝における楊文度の場合(元徽4年)、

(前官)

寧朔将軍・略陽太守・武都王

(新除)

加督北秦州諸軍事・平羌校尉・北秦州刺史,将軍如故。

この「将軍如故」の将軍は「寧朔将軍」を指しており、やはり「如故」とする場合は、爵号のフルネームを記さず、略称が用いられている[26]。また済が元嘉28年に除正を求めた記事には、「并除所上二十三人軍,郡。」と記すが、この記事の「除…軍,郡」は将軍号・郡太守号の略称である[26][16]。これらの例から、「○○将軍」号が「如故」とされる場合は、「○○将軍如故」ではなく、「将軍如故」もしくは「軍如故」と具体名は省略されるのが一般的であるとみなされる。すなわち、問題とする済の場合、元来略称が用いられるべきところに、わざわざ「安東将軍如故」とフルネームが使われていることに、却って問題を感じるのであり、少なくとも夷蛮伝において異例の表現であることは明らかである[27]

石井正敏は、本紀は、安東大将軍に進号した月日や「安東将軍」から「安東大将軍」に進号する、とまで具体的に記しているため、済の爵号が「安東大将軍」とする本紀の記録は信頼性があるという常識的理解のうえで、夷蛮伝・倭国条の表記の異例に注目すると、倭国条元嘉28年条の原文における誤脱を指摘しており、元来「二十八年,加使持節,都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,進号安東大將軍。王如故。」と記すべきものが、誤脱が生じた結果「二十八年,加使持節,都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故。」と伝わった可能性を指摘している。石井正敏は、「もちろん史料原文の誤脱を安易に主張することは厳に慎まなければならないことを十分に認識している。しかしそれでもなお、この部分については誤脱を想定するに十分な理由があるように思われる」として、夷蛮伝は早くに散逸し、遠く10世紀趙匡胤宋代に補われた可能性を指摘しており、元嘉28年に済が得た爵号は本紀の通り「安東大将軍」であり、高句麗王(「征東大将軍」)および百済王(「鎮東大将軍」)と倭王に上下優劣の序列があるという主張には従えないと批判している[27]


注釈

  1. ^ 句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大舉奄喪父兄

出典

  1. ^ a b c 倭王済(日本人名大辞典).
  2. ^ a b c d 井上秀雄『東アジア民族史 1-正史東夷伝』平凡社東洋文庫264〉、1974年12月1日、309-313頁。ISBN 4582802648 
  3. ^ a b 藤堂明保竹田晃、影山輝國『倭国伝 全訳注 中国正史に描かれた日本』講談社講談社学術文庫〉、2010年9月13日、117-123頁。ISBN 4062920107 
  4. ^ 井上秀雄『東アジア民族史 1-正史東夷伝』平凡社東洋文庫264〉、1974年12月1日、315-319頁。ISBN 4582802648 
  5. ^ 森公章 2010, p. 23.
  6. ^ 「ヤマト王権」岩波新書2010‐11‐19 78頁
  7. ^ a b c d e f 河内春人 2018, pp. 73–119.
  8. ^ 倭の五王(国史).
  9. ^ 倭の五王(日本大百科全書).
  10. ^ a b 森公章 2010, pp. 25–46.
  11. ^ a b 足立倫行 「「倭の五王」をめぐる論点」『ここまでわかった! 「古代」謎の4世紀(新人物文庫315)』 『歴史読本』編集部編、KADOKAWA、2014年、pp. 48-61。
  12. ^ 河内春人 2018, pp. 163–206.
  13. ^ 森公章 「稲荷山鉄剣銘の衝撃 金石文・中国史書と記紀からみた四・五世紀」『発見・検証 日本の古代II 騎馬文化と古代のイノベーション』 KADOKAWA、2016年、pp. 70-84。
  14. ^ 「ワ」の物語(百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進本部会議「百舌鳥・古市古墳群」)
  15. ^ 森公章 2010, pp. 51–55.
  16. ^ a b
    二十年,倭國王濟遣使奉獻,復以為安東將軍,倭國王。二十八年,加使持節,都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故。并除所上二十三人軍,郡。 — 宋書、巻九十七
  17. ^
    (元嘉二十年)是歲,河西國,高麗國,百濟國,倭國並遣使獻方物。…(二十八年)秋七月甲辰,安東將軍倭王倭濟進號安東大將軍。 — 宋書、巻五
  18. ^
    二十八年七月安東將軍倭王濟進號安東大将軍 — 冊府元亀、巻九六三
  19. ^ a b c d e f 石井 2005, p. 163
  20. ^ a b c 石井 2005, p. 164
  21. ^ a b 石井 2005, p. 165
  22. ^ 朴鍾大『倭の五王の上表文と韓日古代史の問題点』慶南史学会〈慶南史学2〉、1985年、36-45頁。 
  23. ^ 延敏洙『倭の五王時代の対外関係』汎友社朝鮮語版〈金甲周教授華甲紀念史学論叢〉、1994年、120頁。 
  24. ^
    • 高句麗長寿王(宋永初元年)
    (前官)
    使持節・都督営州諸軍事・征東将軍・高句驪王・楽浪公
    (新除)
    征東大将軍。持節・都督・王・公如故。
    • 高句麗長寿王(大明七年)
    (前官)
    使持節・散騎常侍・督平営二州諸軍事・征東大将軍・高句驪王・楽浪公
    (新除)
    大将軍・開府儀同三司。持節・常侍・都督・王・公如故。
    • 百済腆支王(永初元年、※「公」は高句麗王高璉と合叙されているため、「公」は高句麗王の楽浪公にかかる表記)
    (前官)
    使持節・督百済諸軍事・鎮東将軍・百済王
    (新除)
    鎮東大将軍。持節・都督・王・公(※)如故。
  25. ^
    • 倭王済(元嘉28年)
    (前官)
    安東将軍・倭国王
    (新除)
    使持節・都督倭,新羅,任那,加羅,秦韓,慕韓六国諸軍事。安東将軍如故。
  26. ^ a b c d 石井 2005, p. 166
  27. ^ a b 石井 2005, p. 167


「済」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

「済」に関係したコラム

  • 為替の変動要因となる経済指標の一覧

    世界各国の発表する経指標は、為替の変動要因の1つとされています。その中でもアメリカ合衆国やEU諸国など、主要国と呼ばれる国々の発表する経指標は、米ドル、ユーロなどの主要通貨に影響を及ぼすことがあり...

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「済」の関連用語

1
100% |||||

2
100% |||||

3
100% |||||

4
100% |||||

5
100% |||||

6
90% |||||

7
90% |||||

8
90% |||||

済のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



済のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの済 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS