済
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済(せい)または倭 済(わ せい、生没年不詳)は、5世紀中頃(古墳時代中期)の倭王[1]。「倭王済」とも[1]。
注釈
- ^ 句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大舉奄喪父兄
出典
- ^ a b c 倭王済(日本人名大辞典).
- ^ a b c d 井上秀雄『東アジア民族史 1-正史東夷伝』平凡社〈東洋文庫264〉、1974年12月1日、309-313頁。ISBN 4582802648。
- ^ a b 藤堂明保、竹田晃、影山輝國『倭国伝 全訳注 中国正史に描かれた日本』講談社〈講談社学術文庫〉、2010年9月13日、117-123頁。ISBN 4062920107。
- ^ 井上秀雄『東アジア民族史 1-正史東夷伝』平凡社〈東洋文庫264〉、1974年12月1日、315-319頁。ISBN 4582802648。
- ^ 森公章 2010, p. 23.
- ^ 「ヤマト王権」岩波新書2010‐11‐19 78頁
- ^ a b c d e f 河内春人 2018, pp. 73–119.
- ^ 倭の五王(国史).
- ^ 倭の五王(日本大百科全書).
- ^ a b 森公章 2010, pp. 25–46.
- ^ a b 足立倫行 「「倭の五王」をめぐる論点」『ここまでわかった! 「古代」謎の4世紀(新人物文庫315)』 『歴史読本』編集部編、KADOKAWA、2014年、pp. 48-61。
- ^ 河内春人 2018, pp. 163–206.
- ^ 森公章 「稲荷山鉄剣銘の衝撃 金石文・中国史書と記紀からみた四・五世紀」『発見・検証 日本の古代II 騎馬文化と古代のイノベーション』 KADOKAWA、2016年、pp. 70-84。
- ^ 「ワ」の物語(百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進本部会議「百舌鳥・古市古墳群」)
- ^ 森公章 2010, pp. 51–55.
- ^ a b 二十年,倭國王濟遣使奉獻,復以為安東將軍,倭國王。二十八年,加使持節,都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故。并除所上二十三人軍,郡。 — 宋書、巻九十七
- ^ (元嘉二十年)是歲,河西國,高麗國,百濟國,倭國並遣使獻方物。…(二十八年)秋七月甲辰,安東將軍倭王倭濟進號安東大將軍。 — 宋書、巻五
- ^ 二十八年七月安東將軍倭王濟進號安東大将軍 — 冊府元亀、巻九六三
- ^ a b c d e f 石井 2005, p. 163
- ^ a b c 石井 2005, p. 164
- ^ a b 石井 2005, p. 165
- ^ 朴鍾大『倭の五王の上表文と韓日古代史の問題点』慶南史学会〈慶南史学2〉、1985年、36-45頁。
- ^ 延敏洙『倭の五王時代の対外関係』汎友社〈金甲周教授華甲紀念史学論叢〉、1994年、120頁。
- ^
- 高句麗長寿王(宋永初元年)
(新除)使持節・都督営州諸軍事・征東将軍・高句驪王・楽浪公征東大将軍。持節・都督・王・公如故。- 高句麗長寿王(大明七年)
(新除)使持節・散騎常侍・督平営二州諸軍事・征東大将軍・高句驪王・楽浪公大将軍・開府儀同三司。持節・常侍・都督・王・公如故。- 百済腆支王(永初元年、※「公」は高句麗王高璉と合叙されているため、「公」は高句麗王の楽浪公にかかる表記)
(新除)使持節・督百済諸軍事・鎮東将軍・百済王鎮東大将軍。持節・都督・王・公(※)如故。 - ^
- 倭王済(元嘉28年)
(新除)安東将軍・倭国王使持節・都督倭,新羅,任那,加羅,秦韓,慕韓六国諸軍事。安東将軍如故。 - ^ a b c d 石井 2005, p. 166
- ^ a b 石井 2005, p. 167
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