桐山靖雄 桐山靖雄の概要

桐山靖雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/13 09:11 UTC 版)

中国国立北京大学名誉教授、国立中山大学名誉教授、中国国立佛学院名誉教授、モンゴル国立大学学術名誉教授・名誉哲学博士、タイ国立タンマサート大学ジャーナリズム・マスコミュニケーション学名誉博士、サンフランシスコ大学終身名誉理事、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院 (SOAS) 名誉フェロー、スリランカ仏教シャム派名誉大僧正、チベット仏教ニンマ派仏教大学名誉学長・客員教授、中国国際気功研究センター会長、日本棋院名誉九段、関西棋院九段、中国棋院名誉副主席。

概要

1978年(昭和53年)4月8日に阿含宗を立宗、12月には『阿含密教いま』を世に問うた。立宗に至るまでの約24年間は凖胝観音を本尊とし、『観音経』を依経とする観音慈恵会という仏教教団を主宰していた。

作家志望であり、文藝春秋社の月刊誌『話』(1933年 - 1940年)に巻頭読み切りが掲載されたこともある。後に同社の社長となった千葉源蔵が原稿を買い受けたからである。保高徳蔵の同人誌『文藝首都』にも加わっていた。18歳の時に喀血肋膜炎をこじらせて結核となる。徴兵検査は丙種。結核の治療のためサナトリウムに入る。不運に嘆き天源淘宮術を学ぶなどして運命学を志す。白隠禅師の『施行歌』の一節「利口で貧乏するを見よ」に感化される。

戦後、精米機と製粉機を販売して一定の成功を収めるが、27歳の時、事業に失敗し父が建てた疎開工場の跡地で自殺を図った。首吊りのための縄をかける梁を探していたところ、『般若心経』『観音経』『延命十句観音経』『凖胝観音経』などの記された小経本を梁の上に発見。『凖胝観音経』にある「寂静にして心常に誦すれば一切諸々の大難能く是の人を侵すこと無し」という一句に救いを求め、凖胝観音を守り本尊とし、その布教のために観音慈恵会を発足。敷金3ヶ月分を家賃としての裏長屋からのスタートであった。藩の剣術指南番であった母方の祖父以来の悪業を絶つために法名として母方の桐山姓を名乗る。以後、自身のもつ「ガンの因縁」や「刑獄の因縁」といった悪因縁(悪い運命の星)を解脱するために因縁解脱法を探求し続け、6年間、『法華経』の勉強もしたが、「教え」以上の「法」を求めて密教門を叩いた。その難行とされる念力の護摩法を成就する[1]などして一時は「桐山密教」と謳われることもあったが反発も大きく、真言密教が様式化していることを知って密教界を去るも、ついには小乗の経典と卑しめられていた『阿含経』こそが、釈迦が直説した唯一の経典である以上に、七科三十七道品(三十七菩提分法)という成仏法(因縁解脱し仏陀になるための方法)の記されてある唯一の経典であることを見出した。釈迦仏教は出家仏教であるとの懸念もあったが、『雑阿含経』「一切事経」に説かれている「優婆塞(優婆夷)の十六法」が在家成仏の文証であることを見出して、56歳の時に阿含宗を立宗することを決意。七科三十七道品を現代的に「ブッダになるための七種のシステムと三十七種類のカリキュラム」として打ち出し、しかしそれをあくまでも後期大乗仏教である密教の様式でもって修行することを説いた[2]

55歳の時より金島忠(当時七段)に囲碁を教わる。七目からのスタートであった。横山国忠(当時八段)とテレビ対局、三目で勝つ。続けて、趙治勲本因坊とテレビ対局、122手、三目で勝つ。日本棋院より名誉九段位を授かる。

1991年(平成3年)4月、京都市山科区の花山に純日本式寺院である釈迦山大菩提寺を本山総本殿として建立成就。1993年(平成5年)、伊勢神宮第61回式年遷宮に際して遷宮伊勢の会と平成お伊勢参り実行委員会から招聘を受け奉祝の神仏両界大柴燈護摩供を開催。1994年(平成6年)には国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑において柴燈護摩形式による法要、翌1995年(平成5年)には近江神宮より招聘を受けて柴燈護摩形式による法要を行った。

中国に『法句経』が伝来して以来、1999年目に当たる1997年(平成9年)12月、国立中山大学から名誉教授として招聘を受け「阿含仏教」について講演、また翌年11月には、国立北京大学において阿含経を小乗経典とする天台智顗教相判釈の問題について講演、国立佛学院より名誉教授号を贈られる。1999年(平成11年)12月、北京大学より名誉教授として招聘を受け、佛学院において阿含宗について講演。2000年(平成12年)6月、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院 (SOAS) にて講演、後に名誉フェローシップの栄誉を受ける。

1998年10月、台湾内政部などの招聘を受け台湾嘉義市にて理の柴燈護摩を修する。以後、インド、ニューヨーク、パリ、アウシュビッツ、イスラエルなどにおいて世界平和を祈る護摩法要を行った。また、パラオ諸島コロール島での法要を皮切りとして沖縄、ガダルカナル島ニューギニア島硫黄島サイパン島バシー海峡といった戦地、あるいはシベリア抑留地などにおいて戦没者の成仏供養のための柴燈護摩法要を開催。沖縄県護国神社においても柴燈護摩を奉修、国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑においては「護国之御英霊」の旗を掲げて内護摩形式での法要を行った。以後、同墓苑においては毎年、新盆に万燈会が行われている。

落語家の立川談四楼の著作『たかがピンチじゃないか―人生の達人桐山靖雄に学ぶ、強く生きる知恵』(2012年)は、その伝記として読める。

略歴

  • 1921年1月5日 横浜市神奈川区に生まれる
  • 1923年 横浜から東京の本所に転居、関東大震災に遭う。後、千葉の流山に移る
  • 1932年 神田三崎町にあった私立の大成中学校に入学、本郷町にあった新聞販売店に住み込み新聞配達のバイトをしながら通う
  • 1935年 私立の夜間中学校に籍を置きながら出版社で働く
  • 1937年 上野にあった帝国図書館に日参して勉強し始める
  • 1941年 結核の療養のため千葉の上総湊(かずさみなと)にあった鳩山病院に入院、安静療法のため白隠禅師の『夜船閑話』に説かれる「軟酥(なんそ)の法」に打ち込む
  • 1951年 妹をガンでなくす
  • 1953年 合成ビールの事業化に際して密造酒グループの引き起こした事件に巻き込まれ逮捕される[3]。酒造法違反・私文書偽造行使により懲役1年6ヶ月、罰金5万円の実刑判決を受け、数年後に約10ヶ月間、習志野刑務所(現・市原刑務所)で服役

観音慈恵会の時期

  • 1954年 生麦の裏長屋を借りて観音慈恵会を始める。時に、母の実家の姓「桐山」を法名とする
  • 1955年1月7日 大田区千鳥町に観音慈恵会を移す。後、港区田村町、渋谷区神南町、世田谷区祖師ヶ谷へと移転
  • 1956年1月3日 京都にある養源院で初めて法話をする
  • 1957年 処女作『幸福への原理』(観音慈恵会発行)を刊行
  • 1969年10月 富士の天母台にて柴燈護摩を焚く
  • 1970年1月3日 方広寺に間借りしていた観音慈恵会京都道場にて、7日には北陸支部道場にて法力護摩(念力の護摩)を焚く[1]
  • 1971年 満50歳にして上梓した『変身の原理』(文一出版) がベストセラーとなり「ヘンシーン」を流行語として密教ブームを起こす
  • 1972年 大峰山吉野桜本坊の巽良乗大僧正より名誉行満大正位大先達の山伏位階を授かる
  • 1974年3月 渡米、ヨギ・バジャン師より予言を受ける
  • 1975年4月 『変身の原理』が角川文庫から再刊される

阿含宗の立宗後

  • 1978年4月8日 阿含宗を立宗
  • 1980年『守護霊を持て』がベストセラーとなり守護霊ブームを巻き起こす。11月4日 インドのブッダガヤの金剛宝座にて修法、8日には祇園精舎のミラクルの池にて仏勅を受ける
  • 1985年3月 バチカンのサン・クレメンテ教会にて護摩修法
  • 1988年11月 中国北京市の白雲観を訪問
  • 1989年1月 中国山東省の太清宮を訪問。4月 中国人民大会堂にて王震国家副主席と会談。5月 小説『1999年地球壊滅』などの評価により、ダッチ・トゥリート・クラブの会員となり、 アイザック・アシモフ会長からメダルを贈呈される。12月 ダライ・ラマ14世のノーベル平和賞受賞式に招待され参加。
  • 1990年5月 国際警察長官協会の終身メンバーとなる。
  • 1991年4月 阿含宗の本山総本殿として釈迦山大菩提寺を建立成就
  • 1992年 日本棋院より名誉八段と認定、武宮正樹十段と三子で記念対局
  • 1993年9月 台湾の絲路出版社から『守護霊がもてる冥徳供養』の中国語訳が刊行される。 11月6日~11日 チベット仏教サキャ・ツァル派の大座主チョゲ・ティチェン・リンポチェより金胎両部の伝法灌頂を受け法脈を相承、僧位「金剛大阿闍梨耶」を授かる
  • 1994年2月 台湾で『君は誰れの輪廻転生か』の中国語訳が刊行される
  • 1995年9月 イエズス会系のサンフランシスコ大学の理事に選任される
  • 1998年9月 サンフランシスコ市が9月23日をキリヤマ・デーと定める、11月 北京大学にて「止観の源流としての阿含仏教」という題で講演
  • 1999年3月 インド政府より招聘を受け、ニューデリー郊外にて柴燈護摩法要を行う
  • 2000年6月 ロンドン大学東洋アフリカ研究学院 (SOAS)にて招待講演、11月 ニューヨークのユニタリアン教会にて護摩修法
  • 2001年10月 ニューヨークのリバーサイド教会で護摩修法
  • 2002年12月 日本棋院より名誉九段と認定
  • 2014年 関西棋院より九段の免状を受ける
  • 2016年8月29日 老衰のため死去[4]。95歳没。

  1. ^ a b 初護摩にて「念力の護摩」を焚く 阿含宗公式サイト
  2. ^ 阿含宗公式サイト - 阿含宗とは、どのような教団なのでしょうか”. 2019年3月8日閲覧。
  3. ^ 『毎日新聞』昭和28年8月17日付記事「偽ビール一味捕まる」が報じている。主犯格の男(元巡査)は懲役3年の判決を受けるも逃亡して後、時効。詳しい事情は本人が著書『現世成仏-わが人生・わが宗教』において記している。
  4. ^ 桐山靖雄氏死去 阿含宗開祖・管長[リンク切れ] 『京都新聞』2016年9月12日・阿含宗開祖の桐山靖雄管長死去 平和祈念活動に尽力、囲碁愛好家の顔も 『産経新聞』2016年9月12日・桐山靖雄氏が死去 阿含宗開祖『日本経済新聞』2016年9月12日・阿含宗開祖の桐山靖雄さん死去 95歳[リンク切れ]『朝日新聞』2016年9月12日


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