松平清康 松平清康の概要

松平清康

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/26 17:39 UTC 版)

 
松平清康
松平清康像(随念寺蔵。岡崎市指定文化財)
時代 戦国時代
生誕 永正8年9月7日1511年9月28日
死没 天文4年12月5日1535年12月29日
改名 竹千代(幼名)→清孝
別名 次郎三郎(通称)[注 1]
戒名 善徳院殿年叟道甫大居士
墓所 愛知県岡崎市鴨田町大樹寺
愛知県岡崎市門前町随念寺
氏族 松平氏(自称清和源氏世良田氏
父母 父:松平信忠 
母:大河内満成の娘
兄弟 清康信孝康孝松平乗勝室→鈴木重直室)、
東姫(大浜道場室)、瀬戸之大房(吉良持広室)、矢田姫久?
正室:於波留(春姫)松平昌安の娘)
継室:華陽院
ただし、前夫・水野忠政との間の子の生年から否定する向きがある。
広忠信康、俊継尼(吉良義安室)、
碓井姫松平政忠室→酒井忠次室)、成誉
養女:松平乗勝室→鈴木重直室)、
瀬戸之大房吉良持広室)
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生涯

武力により三河を掌握

清康が創建した龍海院

永正8年9月7日1511年9月28日)、安城松平家6代当主・松平信忠嫡男として生まれる。母は大河内氏

大永3年(1523年)に隠居の祖父・道閲(長親)や一門衆が父・信忠を隠居させて、子である竹千代(清康)に家督を継承させた。三河吉良氏吉良持清偏諱を受けて清孝(きよたか)と名乗る[注 2]。「清康」は現存する当時の発給文書では存在せず、確認できる名称は「清孝」名義しかない[注 3]

大永5年(1525年)に足助城の鈴木重政を攻めてこれを降伏させる。大永6年(1526年、または大永4年(1524年))、岡崎松平家山中城を攻撃して西郷信貞(松平昌安)を屈服させる。

ところが、この時期(大永3年から6年にかけてと推定)に作成されたとされ、深溝松平家(江戸時代の島原藩主)に伝えられていた安城松平家関係者による奉加帳の写(肥前嶋原松平文書「松平一門・家臣奉加帳写」[6])には、これまでの通説と矛盾する内容が記載されている。最初に道閲(松平長親)・松平蔵人佐信忠を筆頭に道閲の兄弟・子供たちをはじめとする松平一門の名前が連記されているが、信忠の後継者である筈の次郎三郎清孝(清康の初名)が67人中の59番目に記され、1人おいてその妻と推定される「医王 上」と呼ばれる女性の名前が記載されている。村岡幹生は当時の清孝(清康)が何らかの事情で安城松平家(道閲・信忠)から離れて山中城(医王山城)で自立状態にあったとしている[7]。村岡は奉加帳が作製されたた時点では信忠がまだ安城松平家の当主であったと判断して、信忠が早くに引退して清康に家督を譲ったとする話や清康が松平昌安を屈服させて山中城や岡崎城を奪ったとする話が創作である可能性があり、内紛など何らかの事情で安城松平家を離れて安祥城を退去する形となった清康が昌安の婿養子に迎えられて岡崎松平家を継ぎ、その後安城松平家の問題が解消されて[注 4]清康が同家に復帰して家督を継承したのが実像に近いのではないかとする説を提示している[8]。なお、村岡は別の論文で、松平信忠の3人の男子の“孝”の字が、信忠の道号である「泰孝」に由来するものとして、清康が清孝から改名した背景には安城松平家から岡崎松平家に移ったことをきっかけにしているのではないかとしている[注 5][9]

その後、信貞の居城であった旧岡崎城は破棄し、現在地の龍頭山に新岡崎城を移転し、岡崎を松平氏の新たな拠点とした[10][11]。岡崎では岡崎五人衆・代官・小代官による支配体制を整備。また、松平氏菩提寺大樹寺勅願寺化や修築・多宝塔の新築、松平郷から勧請し六所神社創建、龍海院の創建等を行った[12]

西三河の実質的な支配権を得るなかで、従来の支配層である三河吉良氏に対する権威性の確立が求められており、このころ清和源氏のひとつ新田氏一門である得川氏の庶流・世良田姓に注目。 吉良氏に対する対立軸として世良田次郎三郎と名乗った。これが後に孫の家康が松平から徳川改姓を行うことにつながっているという(この経緯については世良田氏の項も参照)。清康はさらに、東西に軍を進めて勢力を広げる。

享禄2年(1529年)、尾島城(小島城:西尾市所在)を攻めとる。その一方で、同年5月28日(新暦7月3日)に東三河にも進出して三河牧野氏今橋城(後の吉田城)を攻め落とした[13]。清康はさらに吉田城の南方・渥美郡田原に進軍。戸田氏は戦火を避け戦わずに降服したので清康は吉田城に兵を戻して10日間在城。この間に北方・設楽郡山家三方衆田峯城菅沼氏および長篠城菅沼氏と亀山城奥平氏宝飯郡牛久保の牧野氏等の東三河国人衆を形式上、服属させた。ただし、三河の東端八名郡にあった宇利城の熊谷氏だけが服属を拒んだためこれを包囲し、11月4日11月23日)に攻め落とした[注 6][注 7]

後妻の華陽院松平氏水野氏を破ったときの講和条件として掠取したといわれている。清康の死後、星野秋国、菅沼定望、川口盛祐といった三河の諸豪族へ次々に嫁ぐが、いずれも夫に先立たれた。

なお、一説によれば宇利城攻め以後、桜井松平家の叔父・信定との仲を悪化させたともいわれる。その理由に挙げられるのが、宇利城攻略戦において、大手門を攻める福釜松平家の叔父・親盛を失った際に、支援が遅れたことが原因であるとして信定を清康が罵倒したことだといわれる。ただし、清康と信定の不仲を後世の創作とする説もある[14]

森山崩れ

岡崎市鴨田町大樹寺内にある松平八代墓の松平清康の墓
岡崎市魚町大林寺の松平清康の墓

享禄3年(1530年)には尾張国へ再出兵、岩崎城 を落とし岩崎郷(日進市岩崎町)を、品野城を落とし品野郷(瀬戸市品野町)を奪った。

天文3年6月22日には、猿投神社を焼き討ちし、9つの堂塔を焼失させる。これらはその後、梅坪城主の三宅氏や那須氏などが再建した。

そして勢いに乗った清康は、斎藤道三との対立で苦戦する織田家の間隙をついて、8千名余りと称する軍で尾張に侵攻[15]。天文4年(1535年)12月、清康は尾張に侵入し織田信秀の弟の信光の守る守山城を攻めたが、初戦に大敗し野営を張る。この守山滞在の最中の12月5日12月29日)、清康は大手門付近で突如、家臣の阿部正豊(弥七郎)に両断され即死した。これを「森山崩れ(守山崩れとも)」という。享年25。

清康の遺骸を岡崎に運ぶ途中、腐敗が酷くなったために仮に祭った墓が、西尾市 長縄町の観音寺(浄土宗西山深草派) 近くの畑地にある。後に大樹寺に移された。その跡地には、現在も清康の仮葬地として墓石が残っている[16]

近年ではこの戦いは織田信秀と対立する織田藤左衛門尉を清康が支援し、これに対して織田信秀と松平信定が連携する構図の中で発生したとされ、信定による陰謀とされる背景となっている(信定の妻は信秀の姉妹であった)[17]。また、清康の手で統合された安城・岡崎両松平家の家臣団の間に対立があり、謀反(クーデター)が引き起こされたとする説もある(村岡幹生は阿部氏を今川氏の支援の下にクーデターを起こして最終的に勝利した岡崎派であったとしている)[18]

なお、正豊が清康殺害に用いた刀が「千子村正」と伝えられている[注 8][注 9]。「村正」が徳川家に仇なす妖刀であり、家康が村正を嫌ったという伝説の一部として語られることがあるが、実際には家康の生前にはそのような認識はされていなかったと見られている[21]

人物・評価

江戸中期の逸話集『常山紀談』では家康の祖父として「善徳公(御諱清康安祥二郎三郎殿と世に称し申す)士卒をあはれみ、勇材おはしませしかば、人々其徳になびき従ひ奉れり」と評されている。 一方で、前述の譜代重臣である阿部親子、戸田氏などの国人衆からの不信によって命を落とす結果となった。 また、前述のようにに親族である桜井松平家の叔父・信定とは諍いが多かったとされる。

『安城市史』において松平氏の時代を執筆した村岡幹生は清康の生涯を「安城松平家の出でありながら外に出て大草(岡崎)松平家を踏み台として独自の勢力を形成し、安城松平家を束ねていた松平信定に対抗したもののやがて和解して安城家を継いだ」存在であると結論づけ[22]た上で、別の論文において『三河物語』が清康を安城家の嫡流として一度は衰退した同家を中興して広忠・元康(徳川家康)に繋がったと描き、江戸幕府もこれを公式の歴史観として採用したために、初期松平氏(宗家・諸家)の歴史の中で「消された」事実が存在していることを指摘している(一時的とは言え、安城家を離れて対抗勢力になった事実は不都合であるため)[23]


注釈

  1. ^ 三河物語』では、「案(安)祥之三郎殿」という呼称で登場する。
  2. ^ 三河における吉良氏の権威性によるものであり、清康の子・広忠も持清の子・持広の援助を受けて一字を賜っている。清康の父・信忠も吉良義信から偏諱を受けたとする説[1]や、更にそれに加えて今川義元が清康の孫に偏諱を与えて元信(のち元康)と名乗らせたのは吉良氏(当時の当主は吉良義安か)が三河守護として、国人の一つである松平氏の歴代当主に偏諱を与えてきた権威を否定する目的があったとする説[2]も出されている。
  3. ^ 現存する発給文書で確認できる名称は「清孝」名義のみしかないため、実名を「清孝」で通して実証が出来ない「清康」名義を避ける著作[3]もあるが、現時点では「清康」への改名時期は不明と判断して、実際の改名の有無やその時期については今後の研究の進展を待つべきとする考えもある[4]。また、清康の岡崎城入りを平和的な養子縁組によるものとする村岡幹生は松平昌安の婿養子になったのを期に改名したとしている[5]
  4. ^ 村岡説は「松平一門・家臣奉加帳写」と矛盾する大永3年の信忠の隠居が成立しがたい一方で、信忠の嫡男である清康の安城松平家継承の事実も動かしがたいことを指摘し、遅くても享禄4年の信忠の死去によって内紛は解消されたとしている。
  5. ^ 「孝」と「康」は音読みにすると同じ“コウ”と読む。
  6. ^ 清康の吉田城攻めを宇利城攻め直後とする説もあり、またこの時降伏した吉田の牧野氏を天文元年(1532年)再度攻めて滅ぼした。
  7. ^ 江戸初期の著作である『三河物語』では清康が熊谷実長が城へ押し寄せた際に、四方鉄砲を打ち込むと記載されている。享禄3年(1530年)のこととされる。鉄砲伝来は1543年であり、『鉄砲記』の記述とも矛盾する。
  8. ^ 改正三河後風土記では「千子村正の刀」と言及されている[19]
  9. ^ 三河物語では清康殺害時の記述に「センゴの刀にて」という一文がある[20]

出典

  1. ^ 北村和宏「三河吉良氏の断絶と再興」『吉良上野介義央・義周』 義周没後三〇〇年記念事業実行委員会、2006年。
  2. ^ 小林輝久彦「天文・弘治年間の三河吉良氏」12号、2012年。 /所収:大石泰史 編『今川義元』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻〉、2019年6月。ISBN 978-4-86403-325-1 
  3. ^ 丸島和洋『東日本の動乱と戦国大名の発展』吉川弘文館〈列島の東国史5〉、2021年。 
  4. ^ 柴裕之「総論 戦国・織豊期の徳川家康の動向と研究」『徳川家康』戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 第十巻 徳川家康〉、2021年、14頁。ISBN 978-4-86403-407-4 
  5. ^ 村岡幹生「松平氏〈有徳人〉の系譜と徳川〈正史〉のあいだ」平野明夫 編『家康研究の最前線』(洋泉社、2016年)。後、村岡『戦国期三河松平氏の研究』(岩田書院、2023年)所収。2023年、P33.
  6. ^ 『愛知県史』資料編中世2・1029号文書
  7. ^ 村岡幹生「安城松平一門・家臣奉加帳写の考察」『戦国期三河松平氏の研究』(岩田書院、2023年)P39-48.
  8. ^ 村岡幹生「松平信定の事績」『戦国期三河松平氏の研究』岩田書院、2023年1月、215-232頁。ISBN 978-4-86602-149-2 
  9. ^ 村岡幹生「松平氏〈有徳人〉の系譜と徳川〈正史〉のあいだ」平野明夫 編『家康研究の最前線』(洋泉社、2016年)。後、村岡『戦国期三河松平氏の研究』(岩田書院、2023年)所収。2023年、P31-33.
  10. ^ 「松平清康」『世界大百科事典第二版』
  11. ^ 「松平清康」『日本大百科全書
  12. ^ 第1章 岡崎市の歴史的風致形成の背景” (PDF). 岡崎市歴史的風致維持向上計画. 岡崎市. p. 43. 2022年6月3日閲覧。
  13. ^ 「三州吉田記」『近世三河地方文献集』(久曾神昇近藤恒次編 、国書刊行会、1980年)所収。
  14. ^ 村岡幹生「松平信定の事績」『戦国期三河松平氏の研究』岩田書院、2023年1月、219-223頁。ISBN 978-4-86602-149-2 
  15. ^ 「松平清康」『世界大百科事典第二版』
  16. ^ 『松平清康公仮葬地 愛知県』 と刻銘された石碑が建っている。
  17. ^ 柴裕之 著「桶狭間合戦の性格」、黒田基樹 編『今川義元』戎光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 第1巻〉、2019年6月、296頁。ISBN 978-4-86403-322-0 
  18. ^ 村岡幹生「安城四代清康から広忠へ-守山崩れの真相と松平広忠の執政開始-」『戦国期三河松平氏の研究』岩田書院、2023年1月、242-250頁。ISBN 978-4-86602-149-2 
  19. ^ 改正三河後風土記 上』 - 国立国会図書館、166p。
  20. ^ 三河物語』 - 国立国会図書館、40p。
  21. ^ 「尾張徳川家の至宝」展 妖刀 伝説から史実へ- 西日本新聞 2013年11月21日14時41分
  22. ^ 『新編安城市史1通史編 原始・古代・中世』(2007年)第10章参照
  23. ^ 村岡幹生「大草・岡崎松平家の光重・貞光父子と初期形原松平家」『愛知県史研究』12号(2008年)。後、村岡『戦国期三河松平氏の研究』(岩田書院、2023年)所収。2023年、P66-68.


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