東寺
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歴史
8世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」[注 1] という2つの寺院の建立が計画された。これら2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であった。
南北朝時代に成立した、東寺の記録書『東宝記』によれば、東寺は平安京遷都後まもない延暦15年(796年)、藤原伊勢人が造寺長官(建設工事責任者)となって建立したという。藤原伊勢人については、公式の史書や系譜にはその名が見えないことから、実在を疑問視する向きもあるが、東寺では古くからこの延暦15年(796年)を創建の年としている。それから二十数年後の弘仁14年(823年)、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)は、嵯峨天皇から東寺を下賜され、真言密教の根本道場としたと弘法大師二十五箇条遺告(御遺告)[注 2]に記されている[6]。この時から東寺は国家鎮護の官寺であるととも真言密教の根本道場となった。
東寺は平安時代後期には一時期衰退するが、鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになる。中でも空海に深く帰依したのは後白河法皇の皇女である宣陽門院であった。宣陽門院は霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を寄進した。また、「生身供」(しょうじんく、空海が今も生きているがごとく、毎朝食事を捧げる儀式)や「御影供」(みえく、毎月21日の空海の命日に供養を行う)などの儀式を創始したのも宣陽門院であった。空海(弘法大師)が今も生きているがごとく朝食を捧げる「生身供」の儀式は、21世紀の今日も毎日早朝6時から東寺の西院御影堂で行われており、善男善女が参列している。また、毎月21日の御影供の日には東寺境内に骨董市が立ち「弘法市」「弘法さん」として親しまれている。
中世以後の東寺は後宇多天皇・後醍醐天皇・足利尊氏など、多くの貴顕や為政者の援助を受けて栄えた。文明18年(1486年)に発生した土一揆のために金堂や講堂、南大門などの主要堂塔のほとんどが焼失したが、延徳3年(1491年)には講堂が再建されている。
天正19年(1591年)、豊臣秀吉により2,030石の知行が認められている。また、金堂は慶長8年(1603年)に豊臣秀頼の寄進により、片桐且元を奉行として再建されている。五重塔は寛永21年(1644年)に徳川家光によって再建が行われた。
1895年(明治28年)には、豊臣秀頼が慶長6年(1601年)に建てた三十三間堂の西大門を、東寺の南大門(重要文化財)として移築している。
何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていないが、南大門・金堂・講堂・食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままである。
なお、東寺の執行は代々に渡って空海の母方の叔父である阿刀大足の子孫が、弘仁14年(823年)から1871年(明治4年)まで務めた。
注釈
- ^ 西寺は早い時期に衰退し、現在は京都市南区唐橋の近隣公園・唐橋西寺公園内に史跡西寺跡の碑があり、付近に西寺の寺名のみを継いだ小寺院が残るのみである。跡地である公園や小学校の敷地は西寺跡として国の史跡に指定されている。
- ^ 醍醐寺所蔵:国の重要文化財
- ^ 五大菩薩像のうち4躯は1954年に国宝に指定された。中尊の金剛波羅蜜像は無指定であったが、2012年に「木造五大菩薩坐像 4躯」の「附」(つけたり)という形で追加指定された(平成24年9月6日文部科学省告示第133号)
- ^ 弘法大師で「真言宗十八本山」9番・「京都三弘法霊場」・「神仏霊場巡拝の道」84番・「四国八十八箇所」巻末・「四国別格二十霊場」巻頭、十一面観音で「洛陽三十三所観音霊場」23番、大日如来で「京都十三仏霊場」12番、薬師如来で「京都十二薬師霊場」2番、毘沙門天で「都七福神まいり」、愛染明王で「西国愛染十七霊場」8番などの納経ができる。
- ^ 延文3年(1358年)創建という説もある。
- ^ 附指定の金剛波羅蜜菩薩は2012年追加指定(平成24年9月6日文部科学省告示第133号)
- ^ 2019年に既指定の重要文化財2件(「舎利奉請誡文 後醍醐院宸翰 1幅」および「舎利奉請文 後光厳院宸翰 1巻」)を統合し、これに「後宇多法皇置文 1巻」を追加して、現名称に変更した(令和元年7月23日文部科学省告示第29号)。
- ^ 文化財保護委員会『指定文化財総合目録 美術工芸品篇』(昭和33年版・昭和43年版)において「教王護国寺」「観智院」「宝菩提院」の所有とされている物件を挙げた。
出典
- ^ たとえば、平凡社『世界大百科事典』、小学館『日本大百科全書』は「東寺」、『ブリタニカ国際大百科事典』は「教王護国寺」を見出し語とする。
- ^ 「大師のみてら 東寺」教王護国寺
- ^ このことは、たとえば平凡社『世界大百科事典』の「東寺」の項に明記されている。『芸術新潮』547号(1995年7月)特集「東寺よ開け!」 には、編集部からの問いに対する東寺の回答という形で、「教王護国寺という名称は1,200年間ほとんど使われず、ずっと東寺と呼ばれてきた。」とある。
- ^ 上島有「東寺の歴史 - 教王護国寺という意識をめぐって - 」(特別展図録『東寺国宝展』朝日新聞社、1995、所収)、p.9
- ^ 上島有「東寺の歴史 - 教王護国寺という意識をめぐって - 」、p.13
- ^ 空海高野山 2013, p. 40.
- ^ a b c d 東寺『東寺の建造物 古建築からのメッセージ』1995年 p.60
- ^ 大林組『秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元』 2016年
- ^ 東寺『東寺の建造物 古建築からのメッセージ』1995年 p.108
- ^ 『もっと知りたい東寺の仏たち』pp.38 - 43
- ^ a b 『もっと知りたい東寺の仏たち』p.15-
- ^ (根立、2011)pp.-
- ^ (高田、1968)pp.12 - 13
- ^ (下松、1987)p.63
- ^ a b c (鍵和田、2006)p.142
- ^ a b (根立、2011)pp.74 - 75
- ^ 『もっと知りたい東寺の仏たち』pp.18 - 19
- ^ (根立・新見、2011)、pp.73 - 74
- ^ 『もっと知りたい 東寺の仏たち』、東京美術、2011、による。
- ^ (根立・新見、2011)、pp.49 - 50
- ^ 『東京朝日新聞』1930年(昭和5年)12月22日朝刊30頁「東寺の火事 食堂1棟焼く」
- ^ 昭和6年4月7日文部省告示第151号
- ^ 平成30 年10月31日文部科学省告示第208号
- ^ 「文化審議会答申〜国宝・重要文化財(美術工芸品)の指定について〜」(文化庁サイト、2018年3月9日発表)
- ^ “京都・南区の宿泊施設「東寺洛南会館」閉館へ 修学旅行生「思い出の場所」”. 京都新聞. 2023年3月7日閲覧。
- ^ “東寺小子房庭園 ― 七代目小川治兵衛作庭…京都市南区の庭園。 | 庭園情報メディア[おにわさん]”. oniwa.garden. 2021年6月11日閲覧。
- ^ a b “半世紀前に盗難、宝塔を復元 京都・東寺の毘沙門天”. 京都新聞. (2016年3月20日) 2016年3月21日閲覧。
- ^ a b c 平成30年10月31日文部科学省告示第208号
- ^ 令和元年7月23日文部科学省告示第26号
- ^ 「文化審議会答申〜国宝・重要文化財(美術工芸品)の指定及び登録有形文化財(美術工芸品)の登録について〜」(文化庁サイト、2019年3月18日発表)
- ^ 平成24年9月6日文部科学省告示第127号
- ^ 銅鑼は2015年追加指定(平成27年9月4日文部科学省告示第144号)
- ^ 令和元年7月23日文部科学省告示第29号
- ^ a b 文化庁文化財第一課「新指定の文化財」『月刊文化財』669号、第一法規、2019、pp.41 - 43
- ^ 5巻、77幅、21冊、26通、1鋪は2015年追加指定(平成30年10月31日文部科学省告示第209号)
- ^ 平成23年6月27日文部科学省告示第104号
- ^ 平成24年9月6日文部科学省告示第132号
- ^ 教王護国寺境内 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ a b c 平成29年3月17日京都府公報 (PDF) より京都府教育委員会告示第1号(リンクは京都府ホームページ)。
- ^ 京都市指定・登録文化財-美術工芸品-南区(京都市ホームページ)。
- ^ “穏やかな冬至、終い弘法にぎわう 京都・東寺”. 京都新聞. (2016年12月21日) 2016年12月22日閲覧。
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