東大寺盧舎那仏像 東大寺盧舎那仏像の概要

東大寺盧舎那仏像

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/23 17:31 UTC 版)

東大寺盧舎那仏像

聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われた。後世に複数回焼損したため、現存する大部分が再建であり、当初に制作された部分で現在まで残るのはごく一部である。「銅造盧舎那仏坐像」として国宝に指定されている。

概要

東大寺盧舎那仏像
『大仏縁起』中巻より
信貴山縁起』に描かれた、治承の兵火以前(創建時のもの)の大仏の画像(奈良・朝護孫子寺蔵)
[参考]エンゲルベルト・ケンペル方広寺大仏(京の大仏)のスケッチ(大英博物館所蔵) [2]ケンペルは方広寺大仏について日記に「これまで見たことのない程の大きさで、全身金色である」と書き記している[3]
毎年8月に行われる「お身拭い」

東大寺大仏は、聖武天皇により天平15年(743年)に造像が発願された。実際の造像は天平17年(745年)から準備が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会が実施された。 のべ260万人が工事に関わったとされ、関西大学宮本勝浩教授らが平安時代の『東大寺要録』を元に行った試算によると、創建当時の大仏と大仏殿の建造費は現在の価格にすると約4657億円と算出された[4]

大仏は当初、奈良ではなく、紫香楽宮の近くの甲賀寺(今の滋賀県甲賀市)に造られる計画であった。しかし、紫香楽宮の周辺で山火事が相次ぐなど不穏な出来事があったために造立計画は中止され、都が平城京へ戻るとともに、現在、東大寺大仏殿がある位置での造立が開始された。制作に携わった技術者のうち、大仏師として国中連公麻呂(国公麻呂とも)、鋳師として高市大国(たけちのおおくに)、高市真麻呂(たけちのままろ)らの名が伝わっている。天平勝宝4年の開眼供養会には、聖武太上天皇(既に譲位していた)、光明皇太后、孝謙天皇を初めとする要人が列席し、参列者は1万数千人に及んだという。開眼導師はインド出身の僧・菩提僊那が担当した。

大仏と大仏殿はその後、治承4年(1180年)と永禄10年(1567年)の2回焼失して、その都度、時の権力者の支援を得て再興されている。

現存の大仏は像の高さ約14.7メートル、基壇の周囲70メートルで、頭部は江戸時代、体部は大部分が鎌倉時代の補修であるが、台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部などに一部建立当時の天平時代の部分も残っている。台座の蓮弁(蓮の花弁)に線刻された、華厳経の世界観を表す画像も、天平時代の造形遺品として貴重である。大仏は昭和33年(1958年)2月8日、「銅造盧舎那仏坐像(金堂安置)1躯」として国宝に指定されている。

現存の大仏殿は正面の幅(東西)57.5メートル、奥行50.5メートル、棟までの高さ49.1メートルである。高さと奥行は創建当時とほぼ同じだが、幅は創建当時(約86メートル)の約3分の2になっている。大仏殿はしばしば「世界最大の木造建築」と紹介されるが、20世紀以降の近代建築物の中には、大仏殿を上回る規模のものがある。よって「世界最大の木造組建築」という表現の方が正確であろう[注釈 1]

なお江戸期においては方広寺大仏(京の大仏)の方が、規模(大仏の高さ、大仏殿の高さ・面積)で上回っていた。これは豊臣秀吉が発願したもので、秀吉の造立した初代大仏、豊臣秀頼の造立した2代目大仏、江戸時代再建の3代目大仏と、新旧3代の大仏が知られるが、それらは文献記録(愚子見記、都名所図会等)によれば、6丈3尺(約19m)とされ、東大寺大仏の高さ(14.7m)を上回り、大仏としては日本一の高さを誇っていた。東海道中膝栗毛では弥次喜多が大仏を見物して威容に驚き「手のひらに畳が八枚敷ける」「鼻の穴から、傘をさした人が出入りできる」とその巨大さが描写される場面があるが、そこで描かれているのは、東大寺大仏ではなく、方広寺大仏である [5](なお初版刊行の1802年には、後述のように大仏・大仏殿は既に焼失している [5])。江戸時代中期の国学者本居宣長は、双方の大仏を実見しており、東大寺大仏・大仏殿について「京のよりはやや(大仏)殿はせまく、(大)仏もすこしちいさく見え給う [6]」「堂(大仏殿)も京のよりはちいさければ、高くみえてかっこうよし[6][東大寺大仏殿は方広寺大仏殿よりも横幅(間口)が狭いので、高く見えて格好良いの意か?]」「所のさま(立地・周囲の景色)は、京の大仏よりもはるかに景地よき所也 [6]」という感想を日記に残している(在京日記)。一方方広寺大仏については「此仏(大仏)のおほき(大き)なることは、今さらいふもさらなれど、いつ見奉りても、めおとろく(目驚く)ばかり也[7]」と記している。

方広寺(3代目)大仏は寛政10年(1798年)まで存続していたが、落雷で焼失した。

略年表

正史『続日本紀』、東大寺の記録である『東大寺要録』が引用する「大仏殿碑文」「延暦僧録」によれば、大仏造立の経緯はおおむね次の通りである。

  • 天平12年(740年) - 聖武天皇は難波宮への行幸途次、河内国大県郡(大阪府柏原市)の知識寺で盧舎那仏像を拝し、自らも盧舎那仏像を造ろうと決心したという。(続紀)
  • 天平13年2月14日(741年3月5日) - 聖武天皇が国分寺・国分尼寺建立のを発する。(類聚三代格など)
  • 天平15年10月15日(743年11月5日) - 聖武天皇が近江国紫香楽宮にて大仏造立の詔を発する。(続紀)
  • 天平16年11月13日(744年12月21日) - 紫香楽宮近くの甲賀寺に大仏の骨柱を立てる。(続紀)
  • 天平17年(745年) - 恭仁宮難波宮を転々としていた都が5年ぶりに平城京に戻る。旧暦8月23日(745年9月23日)、平城東山の山金里(今の東大寺の地)で改めて大仏造立が開始される。(碑文)
  • 天平18年10月6日(746年11月23日) - 聖武天皇は金鐘寺(東大寺の旧称)に行幸し、盧舎那仏の燃灯供養を行う(続紀)。これは、大仏鋳造のための原型が完成したことを意味すると解される。
  • 天平19年9月29日(747年11月6日) - 大仏の鋳造開始。(碑文)
  • 天平勝宝元年10月24日(749年12月8日) - 大仏の鋳造終了。(碑文)
  • 天平勝宝4年4月9日(752年5月26日) - 大仏開眼供養会が盛大に開催される。(続紀)

なお、開眼供養会の時点で大仏本体の鋳造は基本的には完了していたが、細部の仕上げ、鍍金、光背の制作などは未完了であった。


注釈

  1. ^ アメリカ海軍が1942年から1943年にかけて全米各地に建造した飛行船格納庫(うち9棟が現存)や秋田県に所在する大館樹海ドームなど
  2. ^ ただし、聖武太上天皇の参列を記載しているのは『東大寺要録』のみで、『続日本紀』には孝謙天皇の行幸記事の記載しかなく、太上天皇の病気の記事が前後に見られるため、聖武太上天皇の開眼供養参列を疑問視する説もある(飯沼賢治「信仰の広がり」館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 2 旅と交易』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-01729-9 P162)。

出典

  1. ^ 大仏の全て | 奈良市観光協会サイト”. 2021年6月29日閲覧。
  2. ^ ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』中央公論社、 1994年 p.95
  3. ^ ケンペル著・ 斎藤信訳『江戸参府旅行日記』平凡社、 1977年、 p.228-231
  4. ^ 東大寺の大仏、現在価格で4657億円産経新聞2010年8月4日
  5. ^ a b 麻生磯次 校注『東海道中膝栗毛(下)』岩波書店 1983年 p.172
  6. ^ a b c 『本居宣長全集 第16巻』1974年出版 在京日記 宝暦七年の条 p.136
  7. ^ 『本居宣長全集 第16巻』1974年出版 在京日記 宝暦七年の条 p.106
  8. ^ (川村、1986)、pp.16 - 18
  9. ^ (川村、1986)、pp.16 - 18、(金子、2010)、pp.34 - 35
  10. ^ (川村、1986)、pp.36 - 38
  11. ^ 左右田信一「談話室 即身仏信仰と安全工学(科学)」『安全工学』第27巻第4号、1988年、238-239頁。 
  12. ^ 「平城京、水銀汚染痕なし」『朝日新聞』2013年05月29日 東京 夕刊
  13. ^ 大津透『律令国家と隋唐文明』<岩波新書>2020年、p.138-141
  14. ^ (川村、1986)、pp.3 - 6および(金子、2010)、pp.33 - 34
  15. ^ (栄原、2002)、p.12
  16. ^ (金子、2010)、p.33
  17. ^ 石野亨「奈良東大寺大仏の塗金」『金属表面技術』第15巻第6号、1968年、7-11頁。 
  18. ^ a b 石野亨「奈良大仏の鋳造技術と2,3の啓示」『鋳造工学』第72巻第3号、2000年、197-203頁。 
  19. ^ 橋本(2005)pp.265-266
  20. ^ a b 久野雄一郎「日本の古代非鉄金属について」『日本金属学会会報』第28巻第7号、1989年、602-607頁。 
  21. ^ 涌谷町/みちのくの金の話”. www.town.wakuya.miyagi.jp. 2022年9月18日閲覧。
  22. ^ 『週刊朝日百科 日本の国宝』51(朝日新聞社、1998年、p.7)
  23. ^ (金子、2010)、pp35 - 36.
  24. ^ (川村、1986)、pp.6567
  25. ^ 本段落は(川村、1986)、pp.58 - 65(金子、2010)、pp.36
  26. ^ 本段落は(川村、1986)、pp.68 - 70, 76
  27. ^ 本段落は(川村、1986)、pp.64 - 65. 70 - 74(金子、2010)、pp.36 - 38
  28. ^ 本段落は(川村、1986)、pp.73 - 74
  29. ^ 飯沼賢治「信仰の広がり」館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 2 旅と交易』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-01729-9 P154-166
  30. ^ 日本三代実録』貞観9年4月4日条
  31. ^ 『日本三代実録』貞観3年3月12日条
  32. ^ 『奈良六大寺大観 東大寺二』、p.52
  33. ^ 『週刊朝日百科 日本の国宝』51(朝日新聞社、1998、p.5)
  34. ^ 大仏さまの螺髪(らほつ)の数はいくつありますか? 東大寺 公式ホームページ
  35. ^ 奈良の大仏、髪の量半分だった レーザー解析で定説覆る 朝日新聞 2015年12月3日
  36. ^ 東大寺大仏:「螺髪」は定説の半分だった 毎日新聞 2015年12月3日





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