平重衡の兵火による焼失
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 05:06 UTC 版)
「東大寺盧舎那仏像」の記事における「平重衡の兵火による焼失」の解説
詳細は「南都焼討」を参照 1回目は治承4年(1180年)の東大寺と興福寺の僧兵集団と平重衡との戦いの兵火の延焼によるものであった。この時、南都の街は炎に包まれ、興福寺が全焼、東大寺も伽藍の主要部を焼失した。兵乱後、重源が大勧進職として再興に奔走した。「勧進」とは仏と縁を結ぶように勧めることで、転じて寺院の再興などのために寄付を集めること、またその役を担う僧のことを指した。平氏政権を倒した源頼朝が再建の主導となり、重源は当時来日していた宋の鋳工陳和卿らの協力を得て大仏を再興した。文治元年(1185年)に開眼法要が営まれた。この時、開眼の筆を執ったのは後白河法皇であった。また、大仏殿の落慶法要は建久6年(1195年)、後鳥羽天皇、源頼朝、北条政子らの臨席のもと行われた。
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