新仁義なき戦い スタッフ

新仁義なき戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/16 16:20 UTC 版)

スタッフ

  • 企画:日下部五朗
  • 原作:飯干晃一
  • 脚本:神波史男、荒井美三雄
  • 撮影:吉田貞次
  • 照明:中山治雄
  • 録音:溝口正義
  • 美術:雨森義充
  • 音楽:津島利章
  • 編集:宮本信太郎
  • 助監督:藤原敏之
  • 記録:田中美佐江
  • 装置:吉岡茂一
  • 装飾:松原邦四郎
  • 背景:西村和比古
  • 美粧結髪:東和美粧
  • スチール:中山健司
  • 衣装:岩道保
  • 演技事務:西秋節生
  • 擬斗:上野隆三
  • 進行主任:上田正直
  • 監督:深作欣二

製作

製作決定に至るまで

1974年9月30日にあった岡田茂東映社長と業界記者団との懇談会で、岡田が1975年正月映画について触れ「正月映画は最終決定に至っていないが、高倉健の『日本仁義』でアメリカ製の『ザ・ヤクザ』を決定してみる考えでいる。それと『ドキュメント山口組』(製作されず)。オールアクションの東映で勝負するつもりだ」と話し[15]、東映の当時の企画製作部長・登石雋一は同じ9月のインタビューで「『仁義なき戦い』の続編は正月には諸般の事情で間に合わないです。やはり新シリーズの一つのパイロットですから、前シリーズに負けないようないいものを出さなければいけないというようなこともありまして、また監督は深作でライターは笠原和夫という前シリーズのコンビで行きたいということもありまして、それがちょうど『実録共産党』(製作されず)とだぶるわけです。『実録共産党』の方もまだ最終稿があがってないという状況でして、慌てて『仁義なき戦い』の新シリーズを出すよりは、十分に引き付けて、決定的なものにして出した方がいいということで、『仁義なき戦い』の新シリーズは来年(1975年)3月以降に考えています。ですから正月はジャンルとしては任侠もののジャンルで二週いきたい。それに空手のアクションをつけていきたいと考えております。何をやるかについては、色々難しい問題がありまして、今のところちょっと申し上げられないですけど、過去の任侠路線でのヒット路線の延長という形といえば大体ご推察がつくと思います」などと話し[16]、『新仁義なき戦い』は1975年の正月映画としては、1974年9月頃までは製作を予定していなかった。

また1974年10月頃に取材したと見られる文献に「東映正月第一弾は高倉健主演で『日本仁義』(『日本任侠道 激突篇』と見られる)が予定され、『山口組三代目』シリーズ第三弾『山口組三代目・激突篇』も候補として挙がっている」と書かれた[14][17]。しかし高倉出演の『ザ・ヤクザ』が洋画系の正月映画として公開されることが決まり[14]、自身が東映に必要とされていないと感じていた高倉は[14]、『無宿』(勝プロ製作・東宝配給)の撮影が終わるといつもの放浪癖ですぐ渡米し、年内は帰国しないと噂された[14]。高倉は『ザ・ヤクザ』をヒットさせて三船敏郎のように国際スターとして活躍したいという思いが強く[14]、無理に東映の正月映画に出演するより東映をソデにした方が得策と考えた[14]。出演料が一本700万円の高倉より、300万円そこそこの菅原の方が興行成績もよく[14]、岡田社長は高倉の出演が当てにできない『日本仁義』製作の一旦中止を決め[14]、菅原主演の「仁義なき戦い新シリーズ」を前倒しして正月映画に決定し、高倉は約10年ぶりに東映の正月映画(第一弾)から姿を消した[13][14]。本作が前シリーズの焼き直しなのは、企画や脚本に新機軸を打ち出す時間がないまま製作を急いだ事情があったものと見られる。

「新仁義なき戦いシリーズ」の第一弾『新仁義なき戦い』の正式な製作発表があったのは1974年10月23日で[18][19]、正月第一弾が『新、仁義なき戦い』(当時の文献の表記)/『ザ・カラテ3・電光石火』、正月第二弾が『山口組三代目・激突篇』/『直撃地獄拳・大逆転』と発表され[18]、「後半の『山口組三代目』については又世論がかかるかも知れないが成人映画も覚悟の上で、未成年リミットのないような前半番組とした」と説明があった[18]。東映としては製作すれば大ヒットは間違いない『山口組三代目・激突篇』なら『大地震』や『エアポート'75』『007/黄金銃を持つ男』などの 洋画の超大作や、東宝百恵・友和映画松竹寅さんに伍して1975年正月興行を戦えると踏んでいたが『山口組三代目』を二本もやったことで1974年の秋以降、兵庫県警による東映への捜査が厳しくなり[20][21][22][23]東映本社等に手入れが入り[24][25][26]、岡田社長は兵庫県警から「東映は暴力団癒着している。『山口組シリーズ』はやめてくれ」と迫られ[26][27]ジャーナリズムからも袋叩きに遭い[27]、『山口組三代目・激突篇』の製作中止をやむなく決断した[26][28][29]。中止を決めたのは1974年の11月に入りかけで[22][26]、正月映画が11月頃に中止になると、映画会社にとっては大きな打撃を被り[26]、『山口組三代目・激突篇』は既に脚本もキャスティングも決まり、ポスターも刷り上がっていたため、製作中止で1億円以上の損害が出た[30]。慌てて番組編成をやり直し、正月第一弾を『新仁義なき戦い』/『直撃地獄拳 大逆転』、正月第二弾を『日本任侠道 激突篇』/『ザ・カラテ3 電光石火』に組み直した[26][31]

キャスティング

1974年10月23日の発表の際、『新仁義なき戦い』は「新仁義なき戦いシリーズ」という告知ははっきりとはされなかったが、「『新・仁義―』は一話読み切り的な作り方となり、第一作目は神波史男と荒井美三雄の共同脚本、出演者もその都度異色の女優を起用し話題性を盛り上げる」と内容説明があったため[19]、最初から第二作目の予定があるシリーズ作で、女優にウェイトを置いた内容になることが予想された。菅原文太が『安藤組外伝 人斬り舎弟』『実録飛車角 狼どもの仁義』で共演した日活ロマンポルノの女優に共感を持ち[14]、中でもお気に入りのロマンポルノのエース・宮下順子を相手役にキャスティングしてくれと頼んだが[14]、日活からは宮下貸し出しの条件として萩原健一主演・神代辰巳監督の一般映画『アフリカの光』に菅原の出演を提示されたため実現しなかった[14]

また岡田社長が渡哲也石原プロモーションから東映に引き抜こうとし[32][33][34][35]、結局専属契約は断られたが[32]、渡は東映映画の出演自体は熱望したため[33]、石原プロ所属のまま東映映画に出演することになり[33][34][36]、渡が1974年のNHK大河ドラマ勝海舟』途中降板で長期入院し同年10月退院後、すぐに『脱獄広島殺人囚』主演のオファーと[33][35][37]、本作の出演も要請したが「年内いっぱいを体力作りの休養に充てたい」と断られ[33][37]、東映初参戦は『仁義の墓場』になった[33][37]

脚本

広島抗争だけではネタが追い付けないため[3]、脚本家たちは全国のヤクザ抗争から題材を探し肉付けしたが[3]、先の事情から本作は前シリーズ五部作の焼き直しである[3]飯干晃一の原作から秘められた部分を洗い出し、人物の仮面を剥いでドロドロした内容にする等と、原作を離れるというニュアンスを公表しため[12]、手記を書いた美能幸三が脚本や宣伝ポスターに何度もクレームを付けたが[12]、東映は「変更できない」と突っぱねた[12]

興行成績

期待したほどお客は入らず[31][38][39]。正月第二弾『山口組三代目・激突篇』が製作出来なかった影響がやはり大きく[39]、『日本任侠道 激突篇』は古色蒼然たるヤクザ世界を描きすぎ[31][39]、『新仁義なき戦い』『日本任侠道 激突篇』を合わせて、ヤングファンを取り逃がし、一月配収は『山口組三代目・激突篇』が製作されれば15億円[19]、『日本任侠道 激突篇』の変更で13億円を目標に置いたが[31]、確定配収は10億684万円(前年比87.3%)となり[31]、予想を大きく下回る結果となった[31][39]。東映洋画が配給した『ドラゴンへの道』が大ヒットしこの穴を埋めた[31]。東映は1974年に東映ポルノを一旦撤退していたが[40]日本ヘラルドが配給した1975年正月映画『エマニエル夫人』が大ヒットしたことから[38]、岡田社長が急遽東映ポルノの再開を決めた[38][39][41]


  1. ^ a b 『キネマ旬報ベスト・テン全史: 1946-2002』キネマ旬報社、2003年、206-207頁。ISBN 4-87376-595-1 
  2. ^ 浪漫アルバム 1998, p. 150.
  3. ^ a b c d e f g h i あかんやつら 2013, pp. 316–317.
  4. ^ a b c d 浪漫アルバム 1998, p. 153.
  5. ^ a b 昭和の劇 2002, pp. 326−334.
  6. ^ a b 映画はやくざなり 2003, pp. 79−82.
  7. ^ a b c d e シネアルバム 1976, pp. 43–44.
  8. ^ 「批判の前に消えた山口組三代目続編」『サンデー毎日』1973年9月23日号、毎日新聞社、44頁。 「やっぱり出た『山口組三代目』批判」『週刊文春』1973年7月16日号、文藝春秋、26頁。 
  9. ^ 「法と常識をナメた東映商法」『週刊新潮』1976年8月19日号、新潮社、19頁。 
  10. ^ a b 浪漫アルバム 1998, pp. 114–117.
  11. ^ 浪漫アルバム 1998, pp. 114-117、140-141.
  12. ^ a b c d e f “『新・仁義なき戦い』 暴力団の内ゲバや当局とのゆ着追及する”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 5. (1974年12月20日) 
  13. ^ a b c d 黒井和男「興行価値 日本映画 『新』を問われるヒット作の中身」『キネマ旬報』、キネマ旬報社、1975年1月新年特別号、198-199頁。 
  14. ^ a b c d e f g h i j k l m 「〈ルック映画〉 高倉健"V12"ならざるの本当の事情」『週刊現代』1974年11月14日号、講談社、35頁。 
  15. ^ 「東映、八月期は170億円突破正月は『日本仁義』と『―山口組』」『映画時報』1974年10月号、映画時報社、19頁。 
  16. ^ 登石雋一(東映取締役・企画製作部長)・鈴木常承(東映営業部長・洋画部長)・畑種治郎(東映興行部長)・池田静雄 (取締役宣伝部長)、司会・北浦馨「正月興行に全力投球・あゝ決戦東映陣 正月は得意の実録路線の大作で勝負」『映画時報』19754年10月号、映画時報社、4–5頁。 
  17. ^ 「〈ニュースメーカーズ〉 山口組シリーズはひっこめたが東映・岡田社長の『ヤクザはメシのタネ論』」『週刊ポスト』1974年12月13日号、小学館、50頁。 
  18. ^ a b c “邦画正月番組殆んどに詰る年末封切作品の製作発表相つぎ挙行”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 1. (1974年11月9日) 
  19. ^ a b c 「東映、正月第一弾『新・仁義―』黄金路線の集約で配収目標は十五億円」『映画時報』1974年11月号、映画時報社、17頁。 
  20. ^ 【今だから明かす あの映画のウラ舞台】実録編(下) 前代未聞の東映本社ガサ入れ 組への資金流出疑い (1/2ページ)高倉健・菅原文太が共演した【封印された】任侠映画の決定版とは?抗争と流血 -東映実録路線の時代- シネマヴェーラ渋谷緊急追悼連載! 高倉健 「背中の残響」(7)“刑事役”と“舟唄”を結ぶ線
  21. ^ 「映画・トピック・ジャーナル 東映『山口組』シリーズに終止符」『キネマ旬報』1975年1月特別号、196-197頁。 
  22. ^ a b 草壁久四郎「実録/戦後日本映画史 人と事件とー最終回 任侠・実録で血路を開いた東映・岡田 松竹・東宝、日活などの老舗に比べ新参だった東映は、岡田茂を中心に試行錯誤を繰り返しながら逞しく成長してきた...」『宝石』1983年1月号、光文社、202-203頁。 
  23. ^ 任侠映画が青春だった 2004, pp. 253–257.
  24. ^ 【今だから明かす あの映画のウラ舞台】実録編(下) 前代未聞の東映本社ガサ入れ 組への資金流出疑い (1/2ページ)山口組分裂 東映「仁義なき戦い」シリーズなどを手がけた大物プロデューサーが激白
  25. ^ 「映画界重要日誌」『映画年鑑 1976版(映画産業団体連合会協賛)』1975年12月1日発行、時事映画通信社、9、12頁。 
  26. ^ a b c d e f 「映画界東西南北談議 復調気配の74年をふりかえって 大きく揺れた映画界の人脈とその動き」『映画時報』1974年12月号、映画時報社、32-34頁。 
  27. ^ a b “話のタネ 東映・岡田社長のツキとカン 来年は頂き…と怪気炎”. デイリースポーツ (デイリースポーツ社): p. 5. (1975年11月13日) 
  28. ^ 岡田茂自伝 2014, pp. 220–227.
  29. ^ 「映画・トピック・ジャーナル 東映『山口組』シリーズに終止符」『キネマ旬報』1975年1月特別号、196-197頁。 田中純一郎『映像時代の到来』中央公論社日本映画発達史5〉、1980年、260-263頁。 NCID BN03002904 『衝撃の世界映画事件史』洋泉社〈別冊映画秘宝〉、2012年、202-209頁。ISBN 4862488382 
  30. ^ 「あの東映に仁義なき戦いが… =株式市場に渦巻く内紛節の根拠=」『実業往来』1975年4月号、実業往来社、33頁。 
  31. ^ a b c d e f g 「映画界東西南北談議 映画復興の二年目は厳しい年新しい映画作りを中心に各社を展望」『映画時報』1975年2月号、映画時報社、33-34頁。 
  32. ^ a b 脇田巧彦 (2011年12月26日). “最後の活動屋 岡田茂 映画こそ我が人生 実録!! 東映六十年(76) 渡哲也を石原プロから引き抜き作戦”. 埼玉新聞 (埼玉新聞社): p. 14 脇田巧彦 (2011年12月27日). “最後の活動屋 岡田茂 映画こそ我が人生 実録!! 東映六十年(77) 渡哲也東映移籍を拒否”. 埼玉新聞 (埼玉新聞社): p. 14 
  33. ^ a b c d e f 「随想 東映スター渡哲也が誕生するまで」『キネマ旬報』1975年2月下旬号、キネマ旬報社、48-49頁。 
  34. ^ a b 「邦画新作情報」『キネマ旬報』1975年4月上旬号、キネマ旬報社、201-202頁。 
  35. ^ a b 「さらば、松方弘樹 脱獄三部作の松方弘樹 文・藤木TDC」『映画秘宝』2017年4月号、洋泉社、17頁。 
  36. ^ 「東映初出演で『仁義の墓場』 渡哲也、カムバック第一作決る」『映画時報』1974年12月号、映画時報社、19頁。 「映画界東西南北談議 復調気配の74年をふりかえって 大きく揺れた映画界の人脈とその動き」『映画時報』1974年12月号、映画時報社、34頁。 
  37. ^ a b c 「なぜ?この悲劇 酷使か原因か? 渡哲也がまたも緊急入院の全真相 俳優生活に危機」『週刊平凡』、平凡出版、1975年3月30日号、34-39頁。 
  38. ^ a b c “エコノミーいんたびゅー 東映社長岡田茂氏 『男の闘映貫かせてもらいます 群抜く企画で不景気と勝負”. デイリースポーツ (デイリースポーツ社): p. 5. (1975年1月31日) 
  39. ^ a b c d e 「女性上位で配収新記録『エマニエル夫人』8億『個人生活』5億」『月刊ビデオ&ミュージック』1975年2月号、東京映音、26–28頁。 
  40. ^ 杉作J太郎・植地毅『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』徳間書店、1999年、252-255頁。ISBN 4198610169 
  41. ^ 鈴木義昭『ピンク映画水滸伝—その二十年史青心社、1983年、234頁。 「〈LOOK〉 東映が追及する新しい金脈とは」『週刊現代』1975年1月2日号、講談社、35頁。 「またぞろポルノ再開の東映」『週刊読売』1975年2月1日号、読売新聞社、33頁。 「東映不良性感度映画の世界 東映不良性感度HISTORY 1974」『映画秘宝』2011年8月号、洋泉社、62頁。 佐伯俊道「終生娯楽派の戯言 第三十七回 軟派から一転、硬派~『処女』から『戦争』へ」『シナリオ』2015年7月号、日本シナリオ作家協会、50頁。 



新・仁義なき戦い。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/28 21:21 UTC 版)

新・仁義なき戦い。』(しん・じんぎなきたたかい。)は、大阪を舞台にした2000年11月25日公開にされたヤクザ映画である。阪本順治監督。


  1. ^ 新・仁義なき戦い。 : 作品情報 - 映画.com”. 映画ドットコム. 2022年7月28日閲覧。
  2. ^ 『蘇る!仁義なき戦い―公開40年目の真実―』徳間書店
  3. ^ 「2000年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報2001年平成13年)2月下旬号、キネマ旬報社、2001年、150頁。 
  4. ^ 第24回日本アカデミー賞優秀作品”. 日本アカデミー賞協会. 2022年7月28日閲覧。
  5. ^ 第22回ヨコハマ映画祭 2000年日本映画個人賞”. ヨコハマ映画祭実行委員会. 2022年7月28日閲覧。


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