嵐寛寿郎 エピソード

嵐寛寿郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/28 19:11 UTC 版)

エピソード

1929年、アメリカの活劇俳優のダグラス・フェアバンクス夫妻が来日の折、滞在先の京都ホテルでアラカンは英語のスピーチをし、「わてが映画俳優として最初に英語で挨拶したんだす」と後年まで自慢していた。なお、そのときの言葉は「ウェルカム・ダラス!」のみであった。

寛プロ解散後、しばらくアラカンは無聊を託っていた。元来新しい物好きで自家用車に凝っていたこともあるアラカンは、二等飛行操縦士のライセンスを取り、ドイツ製のフォッカーを購入、自家用飛行機を持つまでに至った。このライセンスを生かし、遊覧飛行のアルバイトをしていたとき、客から「アラカンや、飛行機屋とはけしからん!」と騒がれたことがある。咄嗟に人違いだと言って取り繕ったものの、腹が立って収まらず、「せやけど、聞きずてならへん。アラカンやったらなんでアカンねん。金払ろてとっと去ね!」とやりかえしたという。後年、「役者やっとったらこうはいきまへん。稼ぎは別として、楽しい毎日やった」と述懐している。

1951年、鞍馬天狗の杉作役で共演した美空ひばりについて、「美空ひばりにはたまげた。まあいうたら子供の流行歌手ですよってな、多くは期待しませんでした。かわゆければよいと、ところがそんなもんやない。…男やない女の色気を出しよる。あの山田五十鈴に対抗しよる」と感服し、女優としてのその才能を認めていた。

1957年、『明治天皇と日露大戦争』で明治天皇を演じるが、これを受けた一番大きな動機として、「シネマスコープ、これに心が動きましたんや」と語っている。映画は大ヒットし、アラカンによると封切りで8億円稼いだ。すると大蔵貢新東宝社長がアラカンを新橋の料亭に招き、「寛寿郎くん、ご苦労でした」と10万円くれた。アラカンはこれを「アセモ代のボーナス」だと思っていたところ、「あとで東劇で凱旋興行をやるから衣装を着けて挨拶してくれ」との話になった。アラカンは「あの10万円ギャラやったんか、すまんがそらお断りや、皇室利用して銭儲けしてもわての知ったこっちゃない、せやけど少しは遠慮しなはれ、明治天皇サンドイッチマンにする了見か」と、大蔵の商魂に舌を巻いている。

アラカンが『網走番外地』の老侠客、鬼寅親分を当たり役としていた1960年代に、趣味の競艇に行ったところ、組関係者から丁重に挨拶され、「どうぞ」とわざわざ貴賓室に案内された。アラカンは「鬼寅親分のおかげや。ファンなんだその連中、冬などはまことによろしい。ガラス張りであたたかい、毎度心地よう利用させてもろてます」と喜んでいた。鬼寅は、ロケ地の網走刑務所でも見物していた囚人たちから「アラカン!頑張れ!」と声援が飛び、アラカンを感激させたほどの気の入った役だった。『直撃地獄拳 大逆転』(1974年[注釈 5])でも、ラストの網走刑務所のシーンの締めのためにわざわざアラカンに鬼寅役で1シーン登場させるほど、当時の鬼寅役は知名度の高いものだった。

1968年の『神々の深き欲望』では、実の娘を犯して、彼女を妊娠させ子供を産ませたという鞍馬天狗とは正反対の汚れ役を演じ、映画生活42年目にして映画で初めて賞を受賞した[5]。この役は当初早川雪洲が演じる予定であったが、諸事情により早川が降板。他の俳優を探していたところ、アラカンにオファーが回ってきたが、その役柄に嫌悪感を感じ乗り気がせず一旦拒否する。しかしその後の今村昌平監督の執拗な出演依頼にやむを得ず出演をしたとの事である。この作品の演出指導はかなり苛酷なもので、今村監督にいきなり「あんたは今まで主演ばっかりやっていたから、人の顔見てものを言わない。自分のアップだけしか考えていない」、「役者は相手を見てものを言うもんや。相手と対話して初めて映画になる。お前は一人で目ェむいてる」と言われたという。また撮影時にアラカンが「カメラはどっちや?」と尋ねると今村昌平監督が「こっちや」と明らかに違う方向を指差す等、その演出指導にほとほと嫌気がさしアラカンは何度も現場放棄をしたが、結局撮影に舞い戻ってくるという逸話を残している。

男はつらいよ 寅次郎と殿様』は、『トラック野郎』と同時にオファーがあり、迷った上での出演であった。甥の山本竜二によると、どちらに出演すべきか相談を持ちかけられ、山本は、「そら先生、寅さんでっしゃろ。国民的映画ですがな」と背中を押してみたが、「せやけど、菅原文太には、新東宝の義理があるさかいなぁ…」と気に掛けていた。が、「後で、トラック野郎にもちゃっかり出演してはりました」と山本は語っている。

医者から高血圧の予防に「くるみの実を手の中で転がしておくように」と言われ、どうせならと、パチンコ店に通い始めた。「趣味と実益と健康と、一石三鳥というわけだ。」と本人は嘯き、なかなかの腕前であった。だがマスコミにパチンコの趣味を暴露されてからは、店内で「先生どうぞ」と、玉のサービスをしてもらったり、桂米朝NHKビッグショー出演のギャラにパチンコ玉交換券を貰うなどの目にあい、アラカンは「有難迷惑や」と苦笑していた。

落語家林家木久扇の憧れの人であり、『笑点』でも時々アラカンの物まねをする。また、三波伸介が司会していた当時に番組のコーナー「伸介のなんでもコーナー」(1975年7月6日放送)にゲスト出演した際に木久扇(当時木久蔵)と共演した。

水木しげるの漫画作品になぜかよく登場していて、タコに子供を生ませたり、鬼太郎とともに妖怪を退治したこともある。

アラカンと鞍馬天狗

『鞍馬天狗 龍攘虎搏の巻』(1938年)右は香住佐代子

マキノで撮った1927年の初作『鞍馬天狗異聞・角兵衛獅子』から、1956年の『疾風!鞍馬天狗』までの実に30年の長きにわたり、アラカンは40本もの『鞍馬天狗』映画に主演している。もっともこれは確認漏れもあり、アラカン自身は「46本のはずだ」と述べている。一方、「庶民のスタア」だったアラカンは批評家からは「アラカンといえばB級・娯楽版、お子様ランチ」などと差別された一面もあった。

アラカンは当たり役『鞍馬天狗』を引き受けた理由として、杉作という子供のキャラクターを挙げ、「昔から、子供の出る芝居は必ず当たるんですね。“先代萩”ありますやろ。チャップリンの“キッド”ありますやろ。子供が出るので、こりゃいけると思いまして、出さしてもらいますと返事しました。子供使うの得や。思ったとおり、大当たりとりました」と語っている。

長三郎時代からアラカンの殺陣は軽快で「スポーツ剣戟」と評されたこともあった。マキノ雅弘はアラカンの殺陣について「わりあいリアルで伸びが良かった」と語っている。稲垣浩によると、立ち回りで相手に刀(竹光)をパチーンとぶつけることで有名だった。一度立ち回りの際に気合いで六尺棒を竹光で真っ二つに斬ったこともあったという。

鞍馬天狗の立ち回りについては決して下着を見せなかった。「女形をやってましたから、これが結果としてよかったのでしょう。女形の裾さばきちゅうもんはチャンバラと合うんですワ。でも私には、人を斬ったるという気がありました。竹光だから斬れへん。周りは弟子がかためましたから、遠慮いりまへん。弟子にはずいぶん怪我さしてます。でも他人には怪我さしてません」と語っている。

そんなアラカンが一番怖かったのは大河内傳次郎だったという。「私の時に限って真剣使うんですワ。一番仲良かったけど、やっぱり気構えが違うんですな。いつも大河内さんは近藤勇の役で、しかもあの人、近眼でっしゃろ。怖かったですよ」[8]

1928年に寛寿郎が「マキノ御室撮影所」を退社したが、これは『角兵衛獅子功名帖』を「鞍馬天狗最終作」と会社側が勝手に決めてしまったことが最大の理由であった。また理由はこれだけではなく、折しもこの年マキノ省三が伊井蓉峰を主役に起用して『忠魂義烈 実録忠臣蔵』を制作しアラカンも出演したが、新派の大物である伊井の尊大な態度や監督の指示を聞かない勝手な演技などの我がままを、マキノたちスタッフが招聘した手前どうにもできずに容認していたことを目の当たりにし、このことへの不満も、アラカンに退社の決意を固めさせた要因であったという[9]

その後、戦中戦後の混乱や空白も乗り越えて、約30年にわたってアラカンは数々の『鞍馬天狗』を制作し演じていたが、1954年、原作者の大佛次郎が自ら『鞍馬天狗』映画の製作に乗り出した。この際にアラカンに不満を言い鞍馬天狗役を封印させたが、大佛の手掛けた、小堀明男を主演に据えた『新鞍馬天狗』は結局、日本映画史に残るとまで言われる(それどころか、作家としての大佛自身の評価にまで傷がつく程の)大失敗作に終わり、『新鞍馬天狗』で映画館が被った損失の補填というとんだあおりを食らってアラカンは代理で2本出る羽目になっている。このときも「言うたら悪いが、生きてる天狗はわてがつくった。」とアラカンは、暗に大佛次郎を非難している。

人物伝としては、この奇骨の人物を愛した竹中労による『鞍馬天狗のおじさんは - 聞き書きアラカン一代』がある。晩年のインタビューによると原作者の「天狗が人を斬りすぎる」という意見に対して、アラカンは「活動大写真」(アラカンの表現)としての立場から同意していない。

『疾風!鞍馬天狗』(監督並木鏡太郎、1956年6月8日公開)公開時のポスター広告。

アラカンとむっつり右門

アラカンの、鞍馬天狗についで有名なキャラクターは38本撮ったむっつり右門である。唇をへの字に曲げて腰を開いて、さァ来いと構えても、右門は「ヤー」とも「オー」とも言わない。無声映画であるから声は聞こえずともよいが、何も言わない顔がかえって迫力があると大いに受けた。アラカンは子供のころからアメリカの喜劇映画が大好きで、「自分がむっつり屋だから」と、「むっつり屋」のキートンがごひいきだった[4]

アラカンは右門について、「これも自分に合うと思いました。昔はしゃべるのがイヤで、いつも、むっつりやったから。キートン、バスター・キートン、あの人ちっとも笑いまへん。これでいこう! と思いました、はい」と語っている[5]

アラカンと寛プロ

映画プロデューサーとして、アラカンの制作姿勢は前衛的だった。1931年には、最初の色彩時代劇である、『京一番風流男』(仁科熊彦監督)をパートカラーで撮り、1935年には『春霞八百八町』(マキノ正博監督)で真っ先に国産トーキー・映音システムを採用している[7]

1928年に、マキノ映画のスターたち6人が独立してそれぞれプロダクションを興したが、20mも離れていなかった千恵プロと寛寿郎プロは対抗意識が強く、プロぐるみで反目し合っていた。結局この2つのプロダクションだけが生き残ることとなっている。自らが映画プロデューサーを務めたこの寛寿郎プロでは、1938年公開の『出世太閤記』を「よろしおしたな。あの映画は一生の思い出ドス。」と語っている。

この作品でアラカンは自ら御殿場ロケで使う馬の交渉に当たり、また実現しなかったが阪東妻三郎に信長役での出演を頼みに、阪妻邸まで出かけていって頭を下げたりと精力的にプロデューサー役に務めた。稲垣浩は「山中貞雄を発見したのもそういう情熱があったからだろう」と語っている。そんなアラカンも晩年は「ちかごろの時代劇アキマセンな。なんでこないなことになったのドスやろ」と嘆いていたという[6]


注釈

  1. ^ 文献により「照市」との表記もある
  2. ^ この徳三郎は「義父」を名乗ることがあったので、文献に混乱が見られるが叔父である。
  3. ^ のちの出演作『続 網走番外地』での「鬼寅親分」のセリフには、「十五の年からいたずら(賭博)をしてきた」というものがある。
  4. ^ 映画のロケーションのこと。土の上で芝居をするためこう呼ばれた
  5. ^ 監督は『網走番外地』と同じ石井輝男

出典

  1. ^ 『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)
  2. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 60頁。
  3. ^ a b ここまで『鞍馬天狗のおじさんは - 聞き書きアラカン一代』(竹中労、徳間書店)より
  4. ^ a b 『あゝ活動大写真 グラフ日本映画史 戦前篇』(朝日新聞社)
  5. ^ a b c 『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』嵐寛壽郎インタビュー「アラカン半生に悔いなし」(サンケイ出版)
  6. ^ a b 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  7. ^ a b c 『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』「庶民の英雄 嵐寛寿郎」(サンケイ出版)
  8. ^ この項ここまで『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)より
  9. ^ 『鞍馬天狗のおじさんは - 聞き書きアラカン一代』(竹中労、徳間書店)


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