寛政の改革 主な政策・改革

寛政の改革

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/07 10:09 UTC 版)

主な政策・改革

経済政策

囲米
諸藩の大名に飢饉に備えるため、各地に社倉義倉を築かせ、穀物の備蓄を命じた。また、江戸の町々にも七分積金とセットにして実施が命じられた[10](p45-65)
旧里帰農令
当時、江戸へ大量に流入していた地方出身の農民達に資金を与え帰農させ、江戸から農村への人口の移動を狙った。1790年に出され、強制力はなかった[12]
農村の復興
寛政の改革時は年貢増徴を行える状況ではなく、小農経営を中核とする村の維持と再建に力を注いだ。農民の負担を軽減する目的で、助郷の軽減、納宿の廃止などを行った。また人口増加政策として間引きの禁止、児童手当の支給を実施した。1790年には二人目の子供の養育に金1両を与え、1799年にはさらに2両に増額とした。
棄捐令
旗本御家人などの救済のため、札差に対して元本が回収済みであろう6年以上前の債権破棄、及び5年以内になされた借金の利子引き下げを命じた。九月の発布後、年越しを前に貸し渋りが生じたが、幕府と札差との間の交渉により年末には年を越せないと危惧された貸し渋りは三ヶ月で収まった[13][* 9]
猿屋町会所
棄捐令によって損害を受けた札差などを救済するために、資金の貸付を行ってその経営を救済して、今後の札差事業や旗本・御家人への貸付に支障がないように取り計らった。札差の七割強が他所から資金を調達して経営していたため、低利で保証もされている幕府からの融資は大多数の札差にとって有益であった[13]
人足寄場
無宿人、浮浪人を江戸石川島に設置した寄場職業訓練した。治安対策も兼ねた。これは定信が更生の為の職業訓練施設の設置を立案し、凶悪犯摘発を職務にする火付盗賊改の長谷川平蔵がそこから具体案を上申して設置が実現した[4](p103)
商人政策・豪商・富農との連携
田沼時代の重商主義を継承し、株仲間や二朱銀などを保証した。
寛政の改革より幕府公金の貸出高が飛躍的に増大した。寛政12年における貸出高は約150万両に及んでいる。貸付金の利子率はほぼ年利1割前後であり、民間の金融市場の利子率よりやや低めであった。この貸付利金は、幕府自らの財政補填のほか、農村復興、宿場助成、用水普請助成、鉱山復興などの資金にあてられた[14]
このように本百姓体制の再建をはかるために、原則的にそれと相反するような富農層の成長を利用する政策を行うのみならず、金融の論理を積極的に導入された[1](p9)
七分積金
町々が積み立てた救荒基金で、町入用の経費を節約した4万両の7割に、幕府からの1万両を加えて基金にした。町入用の経費は、地主が負担し、木戸番銭・手桶・水桶・梯子費用、上水樋・枡の修繕費、道繕・橋掛け替え修繕・下水浚い・付け替えなどに使われた[10](p66-85)。この制度はその後の幕府の財政難にもかかわらず厳格に運用されて明治維新の際には総額で170万両の余剰があった。この資金は東京市に接収されて学校の建設や近代的な道路整備などのインフラストラクチャー事業にあてられた。

その他の経済政策

  • 米価抑制のため、米を大量に使う造酒業に制約を加えて、生産量を3分の1に削減するように命じた。
  • 定信失脚後、定信の路線を継承した松平信明によって、相対済令が出された。

学問・思想

寛政異学の禁
柴野栗山西山拙斎らの提言で、朱子学を幕府公認の学問と定め、聖堂学問所を官立の昌平坂学問所と改め、学問所においての陽明学古学の講義を禁止した。この禁止はあくまで学問所のみにおいてのものであったが、諸藩の藩校もこれに倣ったため、朱子学を正学とし他の学問を異学として禁じる傾向が広まっていった[15]
処士横議の禁
在野の論者による幕府に対する政治批判を禁止した。海防学者の林子平などが処罰された[* 10]。さらに贅沢品を取り締まる倹約の徹底、公衆浴場での混浴禁止など風紀の粛清、出版統制により洒落本作者の山東京伝黄表紙作者の恋川春町、版元の蔦屋重三郎などが処罰された。
学問吟味
江戸幕府が旗本・御家人層を対象に実施した漢学の筆答試験。実施場所は聖堂学問所(昌平坂学問所)で、寛政4年(1792年)から慶応4年(1868年)までの間に19回実施された。試験の目的は、優秀者に褒美を与えて幕臣の間に気風を行き渡らせることであったが、慣行として惣領や非職の者に対する役職登用が行われたことから、立身の糸口として勉強の動機付けの役割も果たした。これは幕末になればなるほど、学問吟味合格者の中から、対外関係を中心に新たな局面に対応できる有能な幕臣が排出されてゆくことになる[16]。類似の制度として、年少者を対象にした素読吟味(寛政5年創始)、武芸を励ますための上覧などが行われた。
文教振興
改革を主導するに当たって幕政初期の精神に立ち戻ることを目的とし、『寛政重修諸家譜』など史書・地誌の編纂や資料の整理・保存などが行われた。また、近江堅田藩主で若年寄として松平定信とも親交のあった堀田正敦など好学大名も文教振興を行った。

対外政策

北国郡代
寛政の改革では北国郡代を新設して北方の防備にあたらせる計画が立てられた。定信は、自ら伊豆、相模を巡検して江戸湾防備体制の構築を練り、江戸湾防衛の為、奉行所を伊豆4ヶ所、相模2ヶ所に設置することを唱えるのと同時に、蝦夷地に渡航するための陸奥沿岸の要衝である三馬屋を天領とし、そこに大筒を配備し「北国郡代」を設置する計画を立案した。さらに、そこにはオランダの協力の元に建造した洋式軍艦を配備しようとした。しかし、このような海防強化計画は提案者である松平定信が老中辞職と共に立ち消えになった。

その他


注釈

  1. ^ 一揆の増大は、重税に耐えかねてという面もあった。田沼は米以外の課税を推進したが、だからといって年貢を減らしたわけではなく、新たな課税と共にできうる限りの高年貢率の維持に腐心した。
  2. ^ 明和2年、勘定所に直接訴える駆込訴を一切受理しないことにした。明和6年、一揆勢の要求は理由を問わず受理しないこと、また密告の推奨。また大名・旗本屋敷の前で強訴することをこれまでは重罰を科さなかったが以後は理由を問わず処罰。安永6年、強訴・徒党に対して頭取以下の参加者に対して磔・獄門・死罪・遠島の厳罰にした。
  3. ^ 田沼が丁銀から南鐐二朱銀への改鋳を推し進めた結果、秤量銀貨の不足による銀相場高騰を招き、天明6年(1786年)には金1両=銀50匁に至ることとなり、江戸の物価は高騰した。凶作による商品の供給不足もあり、年号とかけて「年号は安く永しと変われども、諸色高直(こうじき)いまにめいわく(明和9/迷惑)」と狂歌が歌われた。また歴史学者の西川俊作は、自書『日本経済の成長史』の中で二朱銀の流通がゆっくりとしか拡大しなかったことから、意次の目的は、貨幣制度の統一ではなく、専ら貨幣発行益を獲得することにあったと結論付けている。
  4. ^ 1780年代、田沼が銭を大量発行したことで銭安になっており、西日本では計算通貨として秤量銀貨を使った方が有利だった。また、基本的に銭しか使わない庶民は銭安に苦しんだ。
  5. ^ 寛政の改革以前は山田羽書には準備金はなく、御師個人の信用と不動産の保証のみであったが、寛政の改革以降は大阪城に保管された羽書株仲間の上納積立金計8,080両と、羽書取締役6名の上納金5,500両の正貨準備金を保持することになるなど、より近代的な仕様となり信用強化が行われている。また、羽書の発行限度も原則として20,200両とされていたが寛政の改革で山田奉行管轄となった時には発行高は28,283両余と、8,083両余の空札が出ていた為、全ての空札を銷却を命じられるなど、信用崩壊の危機を脱している。
  6. ^ 8万両にのぼる公金の貸付けを田沼の時代にも実施している。ただし、これは江戸町人にのみ貸し付けられたものであり、田沼時代よりも規模を拡大し代官などを駆使して直接農村まで貸付し、その利息を農村や鉱山の復興に宛てた寛政期はさらに深化している
  7. ^ 田沼時代の支出削減政策として、予算制度を導入し各部署に予算削減を細かく報告させ、予算削減に努めたこと。禁裏財政への支出削減をかけたこと。大名達への拝借金を制限したこと。国役普請を復活させ工事費の負担を転化させたこと、認可権件を行使して民間の商人に任せるのを多用したこと。たびたび倹約令を出し支出を抑制したことなどがある。
  8. ^ 天明の大飢饉の時、幕府は飢饉に対し蓄えておくはずの城米・郷倉米を「役に立たない」という理由で備蓄を放棄していた。江戸浅草の御蔵の米備蓄も既に廃止されていた。
  9. ^ 棄捐令発布当初、札差の取り分は年利12%のうちの2%だったが、公儀との交渉の結果12月26日、6%と決着して札差は矛を収めた。公儀からの金をそのまま武家に仲介するだけで利息の半分を得ることができ札差としても利が多かった。また、翌年7月には武家に貸した額の4割を会所から低利で貸し出す措置が決まった。 また、江戸時代には今の銀行が行っている預かった預金を他者に融資し市場に還流されるような仕組みがないため、商人などの富裕層が退蔵が進むと貨幣の流通量が減った結果、景気が落ち込むという現象が発生する。そのため、棄捐令や貨幣改鋳などの政策は豪商に退蔵される貨幣を吐き出させ貨幣供給量を増やすことで経済の停滞を防ぎ経済活性化を目的とする富の再分配の施策であったという説も存在する。
  10. ^ 林子平が処罰され理由の一つとして「海国兵談」を出版した時期がまずかったという理由も存在している。当時、二度にわたる異国船への通達の直後にロシアによる朝鮮侵略の噂が上方にまで広まっていた上に、天候不順による米価の高騰と合わさって打ちこわしが起こり得ない状況となっていた。そんな繊細な時期での異国脅威論は幕府から見て社会の混乱を助長するものでしかなかった。

出典

  1. ^ a b c d e 徳川林政史研究所『江戸時代の古文書を読む―田沼時代』東京堂出版、2005年6月1日。 
  2. ^ a b 高木久史『通貨の日本史―無文銀銭、富本銭から電子マネーまで―』(中公新書、2016年)
  3. ^ 徳川黎明会徳川林政史研究所監修『江戸時代の古文書を読む―寛政の改革』(東京堂出版、2006年)p. 8
  4. ^ a b c d e 高澤憲治 著、日本歴史学会 編『『松平定信』〈人物叢書〉』吉川弘文館、2012年9月1日。 
  5. ^ 藤田 覚『日本近世の歴史〈4〉田沼時代』吉川弘文館、2012年5月1日。 
  6. ^ 藤田覚『勘定奉行の江戸時代』(ちくま新書、2018年)
  7. ^ 辻善之助 1980, pp. 345–357, 解説 佐々木潤之介.
  8. ^ 藤田覚 2002, pp. 17–29, 「享保の改革」.
  9. ^ a b 磯田 道史『NHKさかのぼり日本史(6) 江戸“天下泰平"の礎』NHK出版、2012年1月26日。 
  10. ^ a b c 藤田覚『松平定信 政治改革に挑んだ老中』中央公論新社、1993年7月25日。 
  11. ^ a b c 藤田 覚『近世の三大改革 (日本史リブレット)』山川出版社、2002年3月1日、30-59頁。 
  12. ^ 坂本賞三 ・福田豊彦監修『総合日本史図表』(第一学習社、2000年1月10日 改訂11刷発行) 246頁に「1790 11 江戸からの帰村を奨励」と記載されている。
  13. ^ a b 山室 恭子『江戸の小判ゲーム』講談社、2013年2月15日、69,70,71,72,73,91,92頁。 
  14. ^ 貸付金とは・意味”. 2021年2月27日閲覧。
  15. ^ 藤田覚『幕末から維新へ』(岩波新書、2015年5月21日)99頁
  16. ^ 藤田覚『幕末から維新へ』(岩波新書、2015年5月21日)100-101頁
  17. ^ 関口すみ子『御一新とジェンダー―荻生徂徠から教育勅語まで―』(東京大学出版会、2005年) ISBN 4130362232 pp.91-98.


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