孔子
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人物
身長は9尺6寸、216cmの長身(春秋時代の1尺=22.5cmとして計算)で、世に「長人」と呼ばれたという(『史記』孔子世家)。 容貌は上半身長く、下半身短く、背中曲がり、耳は後ろのほうについていたという(『荘子』外物篇)。
飯は十分に精白されている米や、膾(冷肉を細く切った物)などを好み、時間が経ち蒸れや変色、悪臭がする飯や魚や肉、煮込み過ぎ型崩れした物は食べなかった。また季節外れの物、切り口の雑な食べ物、適切な味付けがされていない物も食べなかった。祭祀で頂いた肉は当日中に食べる。自分の家に供えた肉は3日以上は持ち越さず、3日を過ぎれば食べないほか、食べる時には話さない等、飲食に関して強いこだわりを持っていた[32]。[1]
弟子とその学統
同時代の思想家との応酬のほか、その学統は顔淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓・宰我・子貢・冉有・季路・子游・子夏ら孔門十哲、更に七十子らに引き継がれた。
子孫
孔子の子孫で著名な人物には子思(孔子の孫)、孔安国(11世孫)、孔融(20世孫)などがいる。孔子の子孫と称する者は数多く、直系でなければ現在400万人を超すという。
孔子に敬意を表するため、孔子その人に様々な封号が贈られたのは前述の通りであるが、その子孫にも厚い待遇が為された。まず前漢の皇帝の中でも特に儒教に傾倒した元帝が、子孫に当たる孔覇に「褒成君」という称号を与えた。また、次の成帝の時、匡衡と梅福の建言により、宋の君主の末裔を押しのけ、孔子の子孫である孔何斉が殷王の末裔を礼遇する地位である「殷紹嘉侯」に封じられた。続いて平帝も孔均を「褒成侯」として厚遇した。その後、時代を下って宋の皇帝仁宗は1055年、第46代孔宗願に「衍聖公」という称号を授与した。以後「衍聖公」の名は清朝まで変わることなく受け継がれた。しかも「衍聖公」の待遇は次第に良くなり、それまで三品官であったのを明代には一品官に格上げされた。これは名目的とはいえ、官僚機構の首位となったことを意味する。
孔子後裔に対する厚遇とは、単に称号にとどまるものではない。たとえば「褒成君」孔覇は食邑800戸を与えられ、「褒成侯」孔均も2000戸を下賜されている。食邑とは、簡単に言えば知行所にあたり、この財政基盤によって孔子の祭祀を絶やすことなく子孫が行うことができるようにするために与えられたのである。儒教の国教化はこのように孔子の子孫に手厚い保護を与え、繁栄を約束したといえる。
孔子の死後すぐに、孔子の住居は魯の哀公によって廟に作り替えられた。この廟(孔廟)は歴代王朝によって維持・拡張され、巨大な建築群となった。現代においては、北京の紫禁城に次ぎ、泰安市の岱廟とともに中国三大宮廷建築の一つと呼ばれている。また、泗水のほとりに葬られた孔子の墓である孔林も、歴代の孔子の子孫が埋葬され続けるとともに規模も拡大され、広大な墓所となった。この孔林に埋葬されている孔子の子孫の数は10万人以上ともされている[33]。そして宋朝期からは、孔廟と孔林を維持管理するために孔家は曲阜に邸宅をもうけ、1055年に衍聖公に封じられると維持管理の役所も兼ねるようになった。この邸宅は衍聖公府(孔府)と呼ばれ、これも後世になるにつれて拡張され立派なものになっていった。この3つの建築群はあわせて、三孔と呼ばれる。現在でも、山東省曲阜市には孔廟、孔林、そして孔府(旧称・衍聖公府)が現存している。 これらの三孔の建築群は、1994年にユネスコによって世界遺産に指定された[34]。 第46代孔宗願から、第77代孔徳成に至るまで直系の子孫は孔府に住んでいた。なお、孔徳成は中華人民共和国の成立に伴い、1949年に台湾へ移住している。中華人民共和国の外交官孔泉は、孔子の76代目の子孫といわれる。
系譜
孔子の子孫一族に伝承する家系図は「孔子世家譜」である。孔子以降、現在に至るまで83代の系譜を収めたこの家系図は2005年にギネス・ワールド・レコーズに「世界一長い家系図」として認定されている。なおこの孔子世家譜は2009年現在までに5回の大改訂が行われている。第1回は明時代(1621年 - 1627年)、第2回と第3回は清時代(1662年 - 1723年)、(1736年 - 1795年)、第4回は中華民国時代(1930年 - 1937年)、第5回は中華人民共和国時代(1998年 - 2009年)である。第5回目の大改訂については、2008年12月31日に資料収集が終了[36]。2009年9月24日に完成した[37]。今回の孔子世家譜には初めて中国国外および女性の子孫も収録され[38]、200万人以上の収録がなされた[37]。
注釈
出典
- ^ “孔子廟訴訟、2月判決 最高裁が政教分離判断へ”. 日本経済新聞 (2021年1月27日). 2021年2月6日閲覧。
- ^ “四聖(シショウ)とは”. コトバンク. 2020年6月14日閲覧。
- ^ “「論語」現存最古とみられる紙の写本見つかる 7日から公開”. NHKニュース (2020年10月7日). 2020年12月23日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 『史記』孔子世家
- ^ https://www.afpbb.com/articles/-/2215012 「再び脚光浴びる「孔子の教え」 - 中国」AFPBB 2007年04月22日 2015年11月2日閲覧
- ^ 「孔子 中国の知的源流」p21 蜂谷邦夫 講談社現代新書 1997年5月20日第1刷
- ^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,42-3頁
- ^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,43頁
- ^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,57頁
- ^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,51頁
- ^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,52頁
- ^ 『論語』子罕編。貝塚、62頁。
- ^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,66頁
- ^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年
- ^ 江連隆『論語と孔子の事典』大修館書店、1996年
- ^ a b 江連隆『論語と孔子の事典』大修館書店、1996年
- ^ 「家語」
- ^ 『孟子』『史記』
- ^ 「図説孔子 生涯と思想」p275 孔祥林著 浅野裕一監修 三浦吉明訳 科学出版社東京発行 国書刊行会 2014年12月22日初版第1刷
- ^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,146頁
- ^ 「図説孔子 生涯と思想」p30 孔祥林著 浅野裕一監修 三浦吉明訳 科学出版社東京発行 国書刊行会 2014年12月22日初版第1刷
- ^ 「図説孔子 生涯と思想」p276 孔祥林著 浅野裕一監修 三浦吉明訳 科学出版社東京発行 国書刊行会 2014年12月22日初版第1刷
- ^ 『論語』陽貨第十七
- ^ 『史記』孔子世家
- ^ a b 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,171頁
- ^ 『史記』孔子世家、左伝
- ^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,173頁
- ^ 「孔子 中国の知的源流」p45-46 蜂谷邦夫 講談社現代新書 1997年5月20日第1刷
- ^ a b c d e f 柄谷行人『普遍宗教は甦る』文藝春秋〈文藝春秋special 10(1)〉、2016年、131-140頁。
- ^ 吉田亮太『春秋戦国政治外交史』三恵社、2014年、P58-61
- ^ ※この一覧表は、江連隆『論語と孔子の事典』(大修館書店、1996年)を参照し作成
- ^ 論語:郷党第十八
- ^ http://www.cnta-osaka.jp/heritage/temple-and-cemetery-of-confucius_and-the-kong-family-mansion-in-qufu 「曲阜の孔廟、孔林、孔府」中国国家観光局大阪駐在事務所 2015年11月2日閲覧
- ^ 小学館編『地球紀行 世界遺産の旅』p186 小学館<GREEN Mook>1999.10、ISBN 4-09-102051-8
- ^ “공 孔”. 斗山世界大百科事典 2022年11月17日閲覧。
- ^ 孔子の子孫200万人超に、「孔子家系図」9月に出版―中国、エキサイトニュース、2009年1月3日。
- ^ a b 孔子の子孫は200万人…家系図の大改訂で女性含め認定、サーチナ、2009年9月24日。
- ^ 孔子の家系図改訂、子孫は200万人を超える、AFP BB News、2008年2月18日。
- ^ 津曲 2013, p. 1156.
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