国鉄C62形蒸気機関車 構造

国鉄C62形蒸気機関車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/04 14:13 UTC 版)

構造

炭水車を含めた機関車全長は21.48 m。重量は145.2 t。走り装置はC59形を基本とし、動輪直径もC59形と同じで国内最大となる1,750 mm。軸配置は、従来の2C1(先輪2輪 + 動輪3輪 + 従輪1輪の意味)のパシフィック形では軸重が特甲線の上限(16.08 t)を超過してしまうため、従輪を2軸とした2C2(先輪2軸 + 動輪3軸 + 従輪2軸の意味)のハドソン形として動軸の軸重を許容上限である16.08 t以下に収めた。また、この従台車の支点の位置を変え[注 1]、先台車の板バネ枚数を16枚から17枚に増やしバネ定数を変更することで動軸の軸重を甲線対応の14.9 tへ引き下げることが可能[注 2]で、この軽軸重化は新製時から軽軸重形として製造された8両(C62 19 - 21・45 - 49)と[1]、完成後の配置機関区の変更の際に軽軸重化されたものとを合わせて26両に施工された。これら軽軸重型は白河以南の東北本線や、仙台以南の常磐線で使用されたほか、末期には、電化の進展で余剰を来たした通常形を軽軸重形に改造の上で、軽軸重形の需要があった函館本線に転用している。弁装置は国鉄制式機の通例どおりワルシャート式であるが、動力逆転機が標準装備されていた。

軽軸重形は空転防止(出力抑制)のためにシリンダ内にスリーブを挿入してのボアダウンが併せて施されたとの通説があるが、少なくとも初期に軽軸重型に改造されたものはボアダウンはされておらず、1953年(昭和28年)発行の鉄道技術発達史にも軸重の変更以外の記述がない。また最初に函館本線に転属したC62 3にもこの対策は施されず、軽軸重化工事のみで運用されていた。また、他の転属機についてもボアダウンしたとの改造記録はなく、機関士の使用感が違ったとの記録もない。同じくD52形から改造されたD62形の例と混同され、広まった可能性が指摘される[要出典]

C62形の製造は、治具生産ライン、それに在庫の仕掛り部材の関係で、C59形の製造に携わった日立製作所笠戸工場(21両:C62 1 - 21)、川崎車輌兵庫工場(15両:C62 22 - 36)の2社が当初指定され、これに続いて車両需給の関係でC61形の発注をキャンセルされた汽車製造大阪製作所(13両:C62 37 - 49)がそれに対する救済措置の意味合いを含め、追加で指定された。この経緯から、C62形の設計は試作機としての役割を持つC62 1 - 4を担当した日立製作所の意見が強く反映されており、日立製量産機と川崎車輌製はこれに準じて製造された。これに対し、汽車製造が担当したC62 37以降は、基本的にはC62 36以前と共通設計ながら、前後で同一形状の蒸気溜り砂箱キセや、弁装置の調整など、C59形の設計に参加した髙田隆雄ら同社技術陣の美意識によって、日立・川崎製とは異なる個性の強い外観とされた。

ボイラーはD52形からの転用であるため缶胴寸法は同一で、煙管長は5,000 mm、燃焼室付きである。

炭水車は当初C59形の戦後形に用いられたものと同一の、全溶接構造の船底形車体に、石炭10 tおよび水22 tを搭載可能とする10-22形が連結されていた。C62 2 - 4で旧満鉄向け機材の転用による自動給炭機(メカニカルストーカー、動力部は炭水車に装備)装備試験を行ったところ好成績が得られたため、国鉄・汽車製造・ダイハツ工業の共同による動力部を機関車取付けとしたものが開発されたことからC62 5以降でこれが制式化され、炭水車も10-22S形(Sはストーカーを意味する)に変更された。ただし、初期製造分は自動給炭機の完成が遅れ、非搭載のまま就役している。この自動給炭機は、スクリュー式コンベアでカマの入口まで送り、火室に蒸気で吹き込む構造になっていた[2]

C62形は大直径動輪の上に破格の大型ボイラーを搭載したため、車両限界への抵触が心配された。そこで、煙突は太く短めのものとし、蒸気溜り砂箱を覆うキセも幅広で扁平なものとなった。このため加減弁の開閉装置は通常のリンク式が使用出来ず歯車式とした[注 3]が、開閉が重く振動音が大きいなど問題があり、後に改良型のリンク式として解決を図った。また、汽笛も限界内に収まるよう、後方に傾斜して取り付けられている[1]

また、自動給炭機を取り付けたために運転室が高くなり、頭が天井につかえる感じになった、という証言もある[2]

ストーカー使用前提で定められた燃焼率600 kg/m2時の最大出力は1,620 PSで、これは母体となったD52形の1,660 PSに次いで日本国内では歴代第2位である。また、動輪周馬力で比較すると、C62形はC59形に比して1.2倍以上という圧倒的な高出力を実現している。実際に新造開始直後山陽本線糸崎 - 八本松間で実施された、ボイラに燃焼室を持たない長煙管の戦前型C59形との性能比較試験では、同一条件下で石炭消費量が20パーセント以上節約されるという好成績を収めている。これはC59形よりもC62形のほうが定格に対して低負荷となり缶効率が良いためである。


注釈

  1. ^ ただし、従台車の支点位置は工場出荷時に決定された位置から変更不可のため、途中での改造時には従台車の新製品あるいは仕様が一致する廃車発生品への交換が必要だった。
  2. ^ 動軸の軸重を3軸合計で48.23 tから44.59 tへ引き下げ。車両重量そのものはほとんど変化していないため、その分先台車と従台車の負担が増大することになる。
  3. ^ C62 1の初期の記録写真では、その後の改良型リンク式とは引棒の取り付き方が異なっている。
  4. ^ D52形2両の状態不良のボイラーを組み合わせて1両分の良品を捻出した。乙缶と丙缶の2種類を利用。なお、乙缶、丙缶のいずれも戦時設計の低規格ボイラーである。後に戦時製造の甲缶を含めてほとんどのボイラーが鷹取工場などの国鉄工場で新製された甲缶に取り替えられた。
  5. ^ いずれも1948年(昭和23年)11月上旬までに使用開始された実績のある機体である[3]
  6. ^ 浜松工場では工場出場後に慣らし運転なしに即座に急客牽引に充てていたが、主連棒のビッグエンドのメタルを1/1000のテーパーに仕上げていたために可能となったもので、鷹取工場はそれを知って真似を諦めた。
  7. ^ 9月30日に下関駅を出る上り列車牽引に充当させ、広島駅到着後そのまま転属した。
  8. ^ 1968年(昭和43年)10月1日ダイヤ改正後は寝台車・食堂車のみの10両編成 (365 t) が基本となっていた。
  9. ^ さらに「安芸」は1968年12月から糸崎以西で機関車にヘッドマークを取り付けたが、広島到着後のマーク付け替え作業を省略するために1969年3月以降は下り「安芸」を牽引した機関車がマークを外さず上り「安芸」を牽引して折り返すよう運用変更を実施している。
  10. ^ 呉線の蒸気機関車さよなら列車となった「安芸」の最終列車はC59形牽引となり、C62形は普通列車と荷物列車のみの最終運用となった。
  11. ^ 試験的に東北本線の白河以北へ入線したことがあったが、勾配の連続する郡山 - 福島間を中心に空転が頻発したこともあり、本格的に運用されることはなかった。
  12. ^ 「はつかり」運用で炭水車への給水は水戸と平で停車中に行われたが、石炭の補給は行わないため。
  13. ^ 仙台機関区でも転車台が老朽化した一因にC62形の存在が挙げられたほどであった。
  14. ^ 蒸気・ディーゼル時代の「はつかり」も同じ理由から常磐線経由とされていた。
  15. ^ 上野寄りからカニ21形 - ナハネ20形 - ナロ20形 - ナハネフ23形 - ナロネ21形 - ナロネ21形 - ナロネ21形 - ナシ20形 - ナハネ21形 - ナロネ21形 - ナハネ20形 - ナハネ20形 - ナハネ20形 - ナハネ20形 - ナハネフ23形の15両。換算39.5両で、平 - 仙台間はC62 22が牽引した。
  16. ^ 当時は山陽本線の寝台特急牽引でC62形の限界性能発揮を必要とする運用が継続しており、好調機は可能な限りそちらの運用へ優先的に充当する必要があった。
  17. ^ 後の共通追加工事として、1967年(昭和42年)には小樽 - 滝川間交流電化対策として副燈(シールドビーム)設置。1968年(昭和43年)からは主燈とナンバープレートの間に電池式の非常燈が設置され、一時は三つ目スタイルとなっていたが、こちらは短期間で撤去されている。
  18. ^ ただし、『ドキュメント・感動の所在地―忘れえぬ鉄道情景 (3) (Neko mook (386) ) 』(2002年ネコ・パブリッシング)pp.268 - 269によると、1970年3月の記録として、急行「ニセコ」(104レ)でC62 2が本務機、C62 3が前補機で運用され、C62 2は函館駅まで直行。翌日の急行「ニセコ」(103レ)で長万部駅の1つ函館側の中ノ沢駅を単機で通過。翌日の急行「ニセコ」(104レ)は前後を入れ替え(同記事には、「補機は前日の下り本務機が担当するように運用を入れ替える」と記載)、C62 2+3の重連で運用されたという記載がある。
  19. ^ 1964年(昭和39年)6月1日に軍川駅から大沼駅に改称。同時に従来の大沼駅が大沼公園駅に改称。
  20. ^ 2016年平成28年)3月26日に渡島大野駅から新函館北斗駅に改称。
  21. ^ 1987年(昭和62年)4月1日に信号場から旅客駅に変更。
  22. ^ 藤城線開通後、仁山駅を通る従来線を経由する下り列車は、一部の普通列車のみとなっていたが、2016年(平成28年)3月26日の北海道新幹線開業後は一部を除いて従来線を経由する経路に戻された。
  23. ^ 急行「石北」の前身は同じ区間で運転されていた夜行準急「はまなす」。1968年(昭和43年)10月1日ダイヤ改正(ヨンサントオ)以降の札幌 - 網走間の夜行急行「大雪6・6号」→ 1978年(昭和53年)10月1日ダイヤ改正以降の夜行急行「大雪5・6号」→ 1980年代中期以降に夜行1往復のみとなった急行「大雪」→ 2006年(平成18年)3月18日ダイヤ改正で臨時列車となった夜行特急オホーツク9・10号」の母体となった列車である。
  24. ^ 1970年(昭和45年)当時、全般検査ではC62形の場合約1,000万円の経費(人件費約700万円、資材費約220万円)が必要なのに対し、余剰車の転用・改造では100万円程度[1]。ちょうどこの頃、会計検査院より「蒸気機関車を一方で廃車しながら一方では経費を掛けて修繕を行なっている」と経費上問題ありと指摘され、広域の転属・配置換えが行なわれた理由となっている。
  25. ^ DD51形への置き換えによって、高速運転する海線で、わずか140kmあまりの区間ながらも、約30分ほど所要時分の短縮が実現した。これは、動輪周出力で同等ながらも機関車自体の重量が約50t軽くなったこと、粘着引張力が1.3倍になり低速での加速力を増したことなどによる。
  26. ^ ただし、1973年10月から1974年4月まで日豊本線宮崎 - 都城間で下り「日南3号」にてC57形による蒸気機関車牽引の急行列車が復活している。
  27. ^ 本来は現存最若番車を保存する方針だったが、「つばめマーク」による人気から、C62形ではC62 1が現存していたにもかかわらず、C62 2が選定された。
  28. ^ 蒸気機関車の形式名にはハイフンはないが、番組の題名には "C-62" とハイフンが入る誤記がある。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp 『追憶のSLC62』 pp.100 - 104
  2. ^ a b おのつよし 『日本の鉄道100ものがたり』文藝春秋文春文庫 1991年5月10日、pp.174 - 178
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar 『追憶のSLC62』 pp.108 - 117
  4. ^ つばめを動かすひとたち 日映科学映画製作所1954年製作 NPO法人科学映像館
  5. ^ 西尾恵介「機関車C62」交友社『鉄道ファン』1994年8月号 No.400 p.22
  6. ^ 西尾恵介「機関車C62」交友社『鉄道ファン』1994年8月号 No.400 pp.30 - 33
  7. ^ 奈良崎博保「C62 下関区を去る」交友社『鉄道ファン』1964年12月号 No.42 p.51
  8. ^ 鉄道ファン編集部「山陽本線電化による蒸機のゆくえ」交友社『鉄道ファン』1964年12月号 No.42 pp.48 - 51
  9. ^ 西尾恵介「機関車C62」交友社『鉄道ファン』1994年8月号 No.400 pp.36 - 44
  10. ^ a b 直方清博「301列車のSL牽引終わる」交友社『鉄道ファン』1967年1月号 No.67 p.77
  11. ^ 新屋正「岩徳線のC62消える」交友社『鉄道ファン』1968年1月号 No.79 p.59
  12. ^ 滝田光雄「C62の現状と将来」 鉄道記録映画社『鉄道ジャーナル』1969年4月号 No.20 pp.26 - 27
  13. ^ 藤井浩三「その後の糸崎区のSL」交友社『鉄道ファン』1968年1月号 No.79 p.59
  14. ^ 庄田秀「C59の限定運用設定」、交友社「鉄道ファン」1969年4月号、No.94、p79
  15. ^ 竹内均「糸崎区のSL運用再び改正される」、交友社「鉄道ファン」1969年6月号、No.96、p88
  16. ^ トピックフォト「電化まぢかの呉線を行く」 鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』1970年9月号 No.241 p.83掲載写真および解説
  17. ^ 松本謙一「かくて呉線の火は消えぬ」『鉄道ファン』1970年12月号 No.115 pp.16 - 20
  18. ^ 窪田正実「呉線電化開業前後」 鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』1970年12月号 No.245 pp.33 - 35
  19. ^ 交友社『鉄道ファン』1994年8月号 No.400 p.56
  20. ^ 西尾恵介「機関車C62」交友社『鉄道ファン』1994年8月号 No.400 p.34
  21. ^ 池田光雅「常磐線の歩みと戦後の機関車運用」『蒸気機関車』No.31、pp.35 - 36 キネマ旬報社、1974年5月。
  22. ^ 大山正「仙台のC62覚書き」『国鉄時代』Vol.19、pp.51 - 57 ネコ・パブリッシング、2009年11月。
  23. ^ 『函館本線C62』、イカロス出版、2018年9月、172-181頁。 
  24. ^ 『函館本線C62』、イカロス出版、2018年9月、191 -228頁。 
  25. ^ a b 『函館本線C62』、イカロス出版、2018年9月、64頁。 
  26. ^ 『函館本線C62』、イカロス出版、2018年9月、73頁。 
  27. ^ 「C60・C61・C62形の計画・誕生・配置」『鉄道ピクトリアル』No.150 1963年10月号 p.15
  28. ^ a b 庄田秀「消えゆくハドソン形のパイオニアC621への追憶」交友社『鉄道ファン』1967年12月号 No.78 p.17
  29. ^ a b 庄田、1976年
  30. ^ 松本謙一・相田信二「スワローエンゼルバラバラ事件 C622 最後の全般検査」交友社『鉄道ファン』1971年1月号 No.116 p.46-61
  31. ^ 『函館本線C62』、イカロス出版、2018年9月、160 - 169頁。 
  32. ^ 梅小路蒸気機関車館 C62形2号機の修繕”. 梅小路蒸気機関車館. 2015年8月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年7月23日閲覧。 
  33. ^ お帰りC62-2 復帰セレモニー - 京都鉄道博物館 2018年11月1日
  34. ^ 京都鉄道博物館のSLが逆走、車止めを突き破って脱線…けが人なし 読売新聞 2024年1月8日
  35. ^ JR東海プレスリリース「JR東海博物館(仮称)における展示概要について 資料2」
  36. ^ プロムナード”. 展示車両紹介. 京都鉄道博物館. 2015年6月7日閲覧。
  37. ^ 佐竹保雄「私が見た北のC62」『国鉄時代』Vol.20、ネコ・パブリッシング、2009年。
  38. ^ 『大いなる驀進』 - 寝台特急「さくら」を牽引した、謎の「C62 129」 - 杉山淳一「読む鉄道、観る鉄道 (31) 」マイナビニュース 2013年4月28日
  39. ^ 土曜スペシャル 蒸気機関車C-62 - NHK放送史






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