今川義元 墓所・祈念碑

今川義元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/07 15:30 UTC 版)

墓所・祈念碑

塚・墓など
銅像
  • 愛知県名古屋市緑区の桶狭間古戦場公園平成22年(2010年)5月、桶狭間の戦い450年の記念として建立された。)
  • 静岡県静岡市葵区のJR静岡駅北口広場(「義元公生誕500年祭」の一環として設置され、令和2年(2020年)5月19日に除幕式が開かれた。)

人物・逸話

  • 武勇に関しては幼いころから仏門に入っていたため、武芸を学ぶ機会に恵まれず優れなかったと伝えられているが、桶狭間の戦いでは信長の家臣・服部春安が真っ先に斬りつけようとした時、自ら抜刀して春安の膝を斬りつけて撃退、さらに毛利良勝が斬りつけようとした時にも数合ほどやり合った末に首を掻こうとした良勝の指を食い千切って絶命したと伝えられており、武芸の素養が無かった訳ではない。
  • 公家文化に精通し、京都公家僧侶と交流して、京都の流行を取り入れて都を逃れた公家たちを保護した。山口の大内氏一乗谷朝倉氏と並ぶ戦国三大文化を築いた。[16]さらには自らも公家のようにお歯黒をつけ、置眉、薄化粧をしていたことから、貴族趣味に溺れた人物とされることもある。しかし公家のような化粧をした話は後世の創作であるという説もある。また、たとえ事実であったとしてもそれは武家では守護大名以上にのみ許される家格の高さを示すことこそあれ、軟弱さの象徴とは言い難い。武士が戦場に向かう際に化粧をしていくことは、珍しくないばかりか嗜みの一つであったという説すらある[17]
  • 父・氏親が三条西実隆に和歌の添削指導を受けていたように、義元は駿府に流寓していた冷泉為和に直接指導を受けていた。歌会は、毎月13日、のち11日に行うのが定例になっており、このように月次会を定期的に行うのは全国的に見ても珍しい。ただ、義元は連歌は好まなかったようで、連歌会の記録はほとんど残っていない。今川家中の和歌のレベルは実際はあまり高くなかったらしく、同工異曲の似たような歌が頻出し、そもそも歌合の題目をよく理解していない作品が多い。義元自身も例外でなく、為和から厳しく指導された記録が残っている[18]
  • 『信長公記』では義元の桶狭間の戦いの際の出で立ちを「胸白の鎧に金にて八龍を打ちたる五枚兜を被り、赤地の錦の陣羽織を着し、今川家重代の二尺八寸松倉郷の太刀に、壱尺八寸の大左文字の脇差を帯し、青の馬の五寸計(馬高五尺五寸の青毛の馬)なるの金覆輪の鞍置き、紅の鞦かけて乗られける……。」と伝えている。[要出典]
  • 永禄3年(1560年)の尾張侵攻は、上洛目的説と織田信長討伐・尾張攻略説とがある。ただ、浅井氏や六角氏、北畠氏といった道中の大名に対して外交工作を行った形跡がなく、年内に軍勢もろとも上洛しようとしていたという説にはやや無理がある。
  • 義元が討死し、岡部元信が主君の首と引き換えに織田方に鳴海城を明け渡した際に、義元の首とともに引き渡された兜が岡部家[注釈 10]に伝わり、三の丸神社大阪府岸和田市)に奉納され、今に伝えられている。
  • 桶狭間の戦いの直前、義元の夢の中に花倉の乱で家督を争った異母兄の玄広恵探が現われ「此度の出陣をやめよ」と言った。義元は「そなたは我が敵。そのようなことを聞くことなどできぬ」と言い返すと「敵味方の感情で言っているのではない。我は当家の滅亡を案じているのだ」と述べたため夢から覚めた。義元は駿府から出陣したが、藤沢で玄広恵探の姿を見つけて刀の柄に手をかけたという(『当代記[要ページ番号])。
  • 金山開発や交通網整備にも政治手腕を発揮したといわれる[19]

研究

今川義元の実母に関しては寿桂尼であることには特段疑問が持たれなかった。しかし、天文20年以前に編纂されたと推定できる『蠧簡集残篇』所収「今川系図」に花蔵(玄広恵探)を二男と明記されていること、同系図並びに江戸時代初期の系譜に今川氏豊・象耳泉奘の名前はないことから、氏親の男子は4人で、長男が氏輝、次男が恵探と考えられるようになった。この説に基づいた場合の残された彦五郎と義元の兄弟関係については、彦五郎を永正14年(1517年)頃に生まれた三男(ただし、側室の子である恵探よりも日付は遅い)と考えて義元を四男とする黒田基樹の説[20]と彦五郎を大永2年(1522年)頃に生まれた四男と考えて義元を三男とする大石泰史[21]の説に分かれている。

更に黒田は龍泉院(瀬名貞綱室)を『言継卿記』弘治2年11月28日条の「瀬名殿女中(中略)太守の姉、中御門女中[注釈 11]妹」とする記述から彼女を義元の姉と確定した上で、寿桂尼が玄広恵探が誕生した永正14年(1517年)以降の足かけ3年間に彦五郎・瑞渓院・龍泉院・義元と4名の子を産むことが可能なのか?と疑問を呈し、誕生後の扱いから寿桂尼の実子とみなせる彦五郎、『言継卿記』弘治2年10月2日条に「大方(寿桂尼)の孫」と記されている北条氏規(当時、今川氏の人質となっていた)の生母である瑞渓院も実子とみて間違いなく、同弘治3年2月2日条に「大方女」と書かれた「瀬名殿女中」も龍泉院のことを指すため、残された義元は実は庶出で花倉の乱後に寿桂尼と養子縁組を結んで実子扱いにされたのではないか、という説を唱えた[20](浅倉直美は義元だけではなく龍泉院も側室の子が寿桂尼の養子になったと解する余地があるとする[22])。大石も彦五郎の誕生時期については見解は異なるものの、彦五郎の名乗りは曽祖父にあたる今川範忠(兄・五郎範豊の早世で家督を継いだ)と同じであるため寿桂尼の子と考えてよいとした上で、彦五郎の兄である義元が寺に入れられたのは彼が恵探と同じく庶出であったからではないか、という説を唱えた[21]。ただし、義元の母が側室の可能性を疑わせるものは『群書系図』所収の「今川系図」に氏輝・恵探・義元の順に並べられて、氏輝の欄に「母中御門大納言宣胤女(=寿桂尼)」、恵探の欄に「母福嶋安房守女」、義元の欄に「母同」と記されて恵探と義元が同母兄弟と解釈する余地を残している部分[21]と『高白斎記』天文5年月24日(氏輝の死後、花倉の乱の最中)の記事に寿桂尼を「善徳寺(=義元)ノ老母」ではなく「氏照(=氏輝)ノ老母」と表記している部分に義元が寿桂尼が生んだ子ではない可能性を示す部分のみである[22][23]。また、義元が寿桂尼の子ではないとした場合の生母の実像について、黒田は京都からの食客の娘[20]、大石は福島氏の娘(ただし、恵探の母は福島氏の庶流出身で、義元の母は同氏の嫡流もしくはそれに近い家の出身として、同じ一族内でも嫡庶による身分差があったとする)[21]、浅倉は朝比奈氏の娘(朝比奈泰煕の娘か)[22]と想定しており、意見が一致している訳ではなく、現時点では可能性の域にとどまっている。


注釈

  1. ^ 一説には妹ではなく井伊直平の娘で、義元の側室となり後に関口親永に嫁いだという。また、別の説では親永の実兄である瀬名氏俊の室との誤認とする説もある。
  2. ^ 「護国禅師三十三回忌香語写」の記述より[3][4]。ただし、今川彦五郎を義元の兄とみるか弟とみるかで見解が異なり、黒田基樹は四男説を採る[5]
  3. ^ 江戸時代の元禄頃に成立した説話集『武家雑記』によると、寺に預けられた理由について「義元は足が短く胴長の障害者であったため寺に入れられた」と記されている。しかし、武将の子が寺に入るのは、学問を身に付けるため、さらには兄弟間の家督争いを避けるためであり、珍しいことではなかった(上杉謙信も、幼少期には仏門に出されている)ため、これは義元を貶めるため、少年時代までさかのぼり、事実を歪曲したものと思われる[6]。もっとも、近年出された義元庶出説に従えば、嫡子ではないために家督相続が最初から想定されていなかったから、という説明も可能である。
  4. ^ 建仁寺262世。東常縁の子。兄に駿河・最勝院の素純がおり、その縁で駿河を訪れて雪斎とも交流があった[8]
  5. ^ 梅岳承芳(ばいがくしょうほう)とも。
  6. ^ 今川家側の史料に彦五郎の名を記したものはなく、『今川記』『今川氏系図』には彦五郎の記載はない。彦五郎に関する史料は、いずれも今川家以外の人物によって記されたものである。大永6年(1526年)に行われた今川氏親の葬儀には「今川氏親公葬記」という詳細な記録が残されているが、彦五郎が出席して記録に残されてしかるべき状況にも名はない[10]。こうした不可解な状況から、今川義元が家督継承後に記録を書き換え、彦五郎の存在を抹消したという推測さえある[10]。その後、玄広恵探の方が彦五郎よりも年長であることが確定したことをきっかけとして、氏親が死去したときに彦五郎は幼少で参列を許されなかったとする説[4]、一方で栴岳承芳(義元)は僧籍を有していたため幼少でありながら特別に参列を許されたとする説[5]が出されている。また、今川氏真が彦五郎の菩提を弔ったことを示す文書も発見されている[11]
  7. ^ ただし、親族の後見のない幼少の竹千代を岡崎城に置いて松平家を存続させるのは事実上不可能であり、義元が竹千代を人質としたのは事実上保護を加えて今川傘下の国衆として同家の存続を図ったとする見方もある[13][14]
  8. ^ 桶狭間合戦当時の最盛期の義元の領国は、駿河・遠江・三河の3カ国69万石(太閤検地)である。なお、尾張国は領国化されておらず、尾張国内に、反織田方として山口氏・服部氏などが今川に呼応する動きを見せている。日本軍参謀本部作成の日本戦史における桶狭間役の分析では、石高の低い駿河・遠江・三河が水増しされ、さらに尾張が領国に組み入れられ、100万石と推定され、1万石につき250人の兵役で、総兵力2万5千とされているが、信長公記では4万5千となっており、正確な実数は不明である。
  9. ^ かつては富春院の北側に氏真が父の菩提を弔うために建立した陽光山天澤院(開山は臨済寺三世・東谷宗杲和尚)があったが、江戸時代末期に衰退したため、木像を臨済寺に移し、明治24年(1892)には廃寺となり、墓も臨済寺に移した。その跡地に慰霊塔が建立された。また、富春院には義元の位牌(高さ58cm)がある。
  10. ^ 岡部家は代々岸和田藩主。
  11. ^ 今川氏親の次女で寿桂尼の甥である中御門宣綱の正室。夫と共に度々駿河に下向して寿桂尼を頼っていたため、彼女の実娘と考えられる。なお、氏親の長女である徳蔵院(吉良義堯室)も寿桂尼の実娘と考えられる[20]
  12. ^ 軍師の太原雪斎が桶狭間前に亡くなったことも影響している。詳しくは本人の欄を参照。
  13. ^ 異本の金吾利口書および宗滴夜話には、今川殿となっており、義元も指すかは不明瞭である。

出典

  1. ^ 二本松市史. 第5巻 (資料編 3 近世 2) 、著者 二本松市 編集・発行、出版者 二本松市、出版年 昭和 54.2 1979-2002 第二編 25 世臣伝 一之上/604〜616頁より引用
  2. ^ 【戦国こぼれ話】桶狭間の戦いで無念の死を遂げた戦国大名今川義元は、公家化した軟弱大名だったのか(渡邊大門)”. Yahoo!ニュース (2021年4月28日). 2021年9月29日閲覧。
  3. ^ 大石 2019, pp. 10–11, 「総論 今川義元の生涯」.
  4. ^ a b 黒田 2019, p. 101, 大石泰史「花蔵の乱再考」.
  5. ^ a b 黒田 2017, pp. 58–61.
  6. ^ 『桶狭間の戦い』小学館〈新説 戦乱の日本史 第10号〉、2008年。 
  7. ^ 今枝愛眞「戦国大名今川氏と禅宗諸派」『静岡県史研究』14号、1997年。 /所収:黒田基樹 編『今川氏親』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第二六巻〉、2019年4月、264-265頁。ISBN 978-4-86403-318-3 
  8. ^ 大石 2019, p. 12, 「総論 今川義元の生涯」.
  9. ^ 小和田哲男『週刊ビジュアル戦国王』第77号、2017年12月19日、23頁。 
  10. ^ a b 小和田 2004, p. 68.
  11. ^ 永禄11年3月10日付円良寺宛氏真判物:「円良寺文書」所収/『戦国遺文』今川氏編2186号
  12. ^ 黒田 2019, 柴裕之「松平元康との関係」「桶狭間合戦の性格」.
  13. ^ 黒田 2019, p. 278, 柴裕之「松平元康との関係」.
  14. ^ 黒田 2019, pp. 298–300, 柴裕之「桶狭間合戦の性格」.
  15. ^ 「今川義元もっと知って/来年生誕500年祭/静岡 地元で票世紀再評価・発信」『日本経済新聞』夕刊2018年7月7日掲載の共同通信記事(2018年7月12日閲覧)
  16. ^ 『読売新聞』令和元年6月5日水曜日25面記事
  17. ^ 笹間良彦『イラストで時代考証 日本合戦図図典』雄山閣、1997年。 
  18. ^ 小川剛生『武士はなぜ歌を詠むのか 鎌倉将軍から戦国大名まで』角川学芸出版、2008年7月、241-242頁。 
  19. ^ 軟弱もの、公家かぶれ…負のイメージ根強い今川義元 復権へ地元が全力”. 産経ニュース (2020年5月19日). 2022年8月27日閲覧。
  20. ^ a b c d 黒田 2017, pp. 37–63.
  21. ^ a b c d 黒田 2019, pp. 86–108, 大石泰史「花蔵の乱再考」
  22. ^ a b c 黒田 2019, pp. 213-218・228-229, 浅倉直美「北条氏との婚姻と同盟」
  23. ^ 浅倉直美「花蔵の乱をめぐって」『戦国史研究』77号、2019年5月。 
  24. ^ 『NHK大河ドラマストーリーガイド「風林火山」前編』NHK出版、2006年12月、57頁。ISBN 4-14-923345-4 
  25. ^ 大石 2019, pp. 35–36, 「総論 今川義元の生涯」.
  26. ^ 今川義元「一度の敗北だけで…」静岡市長ら復権宣言 - 『毎日新聞』朝刊2017年5月20日


「今川義元」の続きの解説一覧




今川義元と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「今川義元」の関連用語

今川義元のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



今川義元のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの今川義元 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS