中華民国期の通貨の歴史 辺幣の発行

中華民国期の通貨の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/10 00:12 UTC 版)

辺幣の発行

一方、黄土高原の奥深い、陝西省延安に拠点を置く中国共産党は、着実に解放区(辺区)を広げていた[18]。解放区ごとに辺区銀行と呼ぶ発券銀行を設立して辺区券(辺幣)を発行した[18]。解放区のある地域の名前をとった華中銀行、東北銀行、北海銀行、冀東銀行などの銀行がお札を発券した[18]。辺区は日本軍占領地の広大な後背地に作られた抗日根拠地であり、日本系の銀行券の普及を阻んだ。共産党は辺幣により日本系通貨を回収し、その流通を禁じた。解放区内の通貨を統一し、物資の移動を制限し、さらに回収した日本系通貨を用いて必要物資を日本軍支配地域から逆に調達した[18]。共産党は、日本軍よりも高い値段をつけて購入するので、日本軍支配地域内の共産党嫌いだった富裕層も含めて、次第に共産党シンパを増やしていった[18]。日本は通貨戦争で苦戦が続き、物資調達のために、軍部は前線をさらに拡大せざるを得なかった[18]。米国による中国援助ルートの切断のための雲南ビルマルート作戦、さらに仏印(現・ベトナムカンボジアラオス)進駐、最後には対米開戦に突き進んだ[18]

日本軍は軍票や儲備券の大量増刷を行い、インフレ要因をばらまいて、大東亜共栄圏内の住民生活を苦境に追い込んだ[19]。その上、法幣や辺幣の偽造まで行うようになった[19]

日本軍による紙幣偽造

1938年(昭和13年)1月16日、第1次近衛内閣は、「国民政府を相手とせず」との内閣声明を出し、自ら和平の道を絶ち、5月26日の五相会議で、「五相会議に属し、其の決定に基づき、専ら重要なる対支謀略並びに新支那中央政府樹立に関する実行機関」としての対支特別委員会が設けられることになった[20]。ここから日中戦争の打開策として本格的な対支謀略作戦が展開されることになった[20]

その具体化として6月28日には、「時局ニ伴フ対支謀略」の原案が決定された[20]。この謀略の方針は、一つは政治謀略として親日派による政権樹立をはかり、もう一つは経済謀略によって蔣介石政権の崩壊を図ろうとするものであり、この二つは連動すべきものとされた[21]。そして、方針の具体策の第5として「法幣の崩落を図り、支那の在外資金を取得することにより、支那現中央政府を財政的に自滅せしむ」ことがあげられていた[21]。1938年12月ごろ「対支経済謀略実施計画」(秘匿名「杉計画」)がまとめられた[19][22][23]神奈川県生田村(現・川崎市)にあった陸軍第九研究所(別名登戸研究所)に、山本憲蔵大佐を製造責任者とする法幣の偽造チームが集まった[19][22][23]。上海には偽造した通貨を使用する役割の「松機関」が置かれた[24]

法幣偽造作戦は、陸軍省参謀本部が指揮した国家プロジェクトであった[25]1940年(昭和15年)にはドイツ・ザンメル社製の高価な印刷機を購入して、通貨偽造工場を完成させ、1941年(昭和16年)から本格的に量産を始めた[19][23]。地元神奈川県の女子生徒を集め、新品の偽札に汚れや皺を付けさせた[19]上で上海に運び、金塊、貴金属、食糧などを買い付けた[19]1942年(昭和17年)には日本軍が占領した香港の紙幣印刷工場で法幣の原版を発見し、これをもとに本物そっくりの偽札を量産できるようになった[19][26]。この年の夏ごろから大量の偽造紙幣が印刷できるようになり、長崎を経由して上海に運ばれて、その額面は毎月1億円から2億円にのぼった[27]。国民政府も法幣を大量発行しており、通貨価値は下がり続けていた[10][19]。発行額は、戦争開始直前の1937年6月には14億元だったのが、1948年8月には660億元となった[10]。この法幣の乱発と、偽造通貨とがあいまって、日中戦争後の中国経済を大混乱に陥れ、国民党から民心を離反させる一因となった[19]

辺幣・法幣戦争

1945年(民国34年=昭和20年)8月の日本の敗戦後は、三つ巴の通貨戦争から、共産党と国民党との通貨戦争へとなった[28]。共産党と国民党の競合地域では、辺幣・法幣の両方が使われるようになり、そのどちらがより広い範囲で使われ、価値が高いかは、国共の勢力と人々の信頼度を示すバロメーターとなった[28]。その実力を競い合う最大の場は「市(いち)」である。市が立つと、国共とも工作員を派遣し、自分の方の通貨がより広く通用し、価値も高くなるようさまざまな策略をめぐらす[28]。相手の通貨への不安を掻き立てるようなデマを流したり、地元のごろつきを雇い実力で使用を阻止したりという例も見られた[28]。双方の工作員は短銃で武装し、撃ち合いになることもしばしばだった[29]


  1. ^ a b c d e 田村(2004年)2ページ
  2. ^ a b c d 梶谷(2013年)243ページ
  3. ^ a b 梶谷(2013年)248ページ
  4. ^ a b c d 石川(2010年)71ページ
  5. ^ 小島・丸山(1986年)151ページ
  6. ^ a b c d 梶谷(2013年)251ページ
  7. ^ 梶谷(2013年)249ページ
  8. ^ a b c d e f g 田村(2004年)3ページ
  9. ^ a b c d 小島・丸山(1986年)152ページ
  10. ^ a b c d e f g 張(2012年)39ページ
  11. ^ a b c d e f g h 加藤(2007年)193ページ
  12. ^ a b c d e f g h i j 田村(2004年)4ページ
  13. ^ 小島・丸山(1986年)154ページ
  14. ^ a b c d 石川(2010年)72ページ
  15. ^ a b 加藤(2007年)205ページ
  16. ^ a b c d e f g h i j k l m n 田村(2004年)5ページ
  17. ^ 石川(2010年)199ページ
  18. ^ a b c d e f g h i 田村(2004年)6ページ
  19. ^ a b c d e f g h i j 田村(2004年)7ページ
  20. ^ a b c 渡辺(2012年)129ページ
  21. ^ a b 渡辺(2012年)130ページ
  22. ^ a b 渡辺(2012年)131ページ
  23. ^ a b c 明治大学ホームページ「登戸研究所とは」
  24. ^ 渡辺(2012年)133ページ
  25. ^ 渡辺(2012年)134ページ
  26. ^ 渡辺(2012年)143ページ
  27. ^ 渡辺(2012年)144ページ
  28. ^ a b c d 田村(2004年)8ページ
  29. ^ a b c d e 田村(2004年)9ページ
  30. ^ 田村(2004年)11ページ
  31. ^ a b c 張(2012年)3ページ
  32. ^ 天児(2013年)30ページ
  33. ^ a b c d e 江副(1985年)7ページ





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「中華民国期の通貨の歴史」の関連用語

中華民国期の通貨の歴史のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



中華民国期の通貨の歴史のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの中華民国期の通貨の歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS