ロシアの農奴制 農奴解放令

ロシアの農奴制

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/19 04:37 UTC 版)

農奴解放令

「デカブリスト反乱の鎮圧」。Karl Kolman画(1830年代)

農奴制は、ロシアの農業それ自体の発展にとってもひとつの障壁となっていた[5]。技術改良への意欲は失われ、自暴自棄からくる農奴の反抗をかえって助長したからである[5]1828年から1829年にかけては85件もの農民蜂起があり、1855年から1861年にかけては、その件数は474件におよんだ[5]

1825年、ロシア史上初めてツァーリズム(皇帝専制)に批判が向けられた貴族の将校たちの反乱、デカブリストの乱が起こった。将校たちのほとんどは1812年ナポレオン戦争祖国戦争)とその後のライプツィヒの戦いワーテルローの戦いパリへの進軍など外征の参加者であった[21]。かれらは、戦争中に農民出身の兵卒からロシアの農奴の生活の悲惨なありさまを聞き、さらに祖国と比較して、基本的人権が唱えられ、自由主義的で進んだ西ヨーロッパの人びとの生活を目の当たりにして、農奴制と専制政治を廃止して祖国ロシアを改革し、代議制立憲制を採用して西ヨーロッパ並の国家にしていくことを目ざし、最優先の要求として憲法制定を掲げた[21]。この反乱は一日で終息したが、その後のロシアの革命思想および革命運動に大きな影響をあたえた[21]

文学者たちも、農奴制と皇帝専制に対してしだいに批判の声をあげていった。「ロシア近代文学の父」といわれる文豪アレクサンドル・プーシキンは、乱を起こしたデカブリスト(十二月党員)と深い関係をもっていたといわれており、彼らに深い共感をもっていた[22][注釈 5]。彼の代表作『大尉の娘』(1836年)はエカチェリーナ2世時代の反乱の指導者プガチョフを好意的に描いている[23]ニコライ・ゴーゴリは、1836年の喜劇『検察官』で地方官吏の偽善と腐敗を暴露して自由主義者からの賛美と保守派からの非難を浴びたが、ゴーゴリ自身に現体制を否定する意図はなく、毀誉褒貶に耐えかねて長い外遊に出かけた[24]。また、1842年の『死せる魂』もまた、ゴーゴリの意図をこえて農奴制に対する根本からの告発と受け止められた[24]。それに対し、イワン・トゥルゲーネフはより自覚的であった。1847年以降、文芸雑誌に投稿した『猟人日記』では農奴の悲惨な生活を描き、農奴制そのものを告発した。トゥルゲーネフは、これがもとで逮捕され、投獄されたが、のちに皇帝アレクサンドル2世が農奴解放を決心したのは、皇太子時代にこの作品を読んだからだといわれている。トゥルゲーネフは1854年の『ムムー』においても地主のもとで酷使される農奴たちの悲劇を描き、精神の自由を唱えた。

デカブリスト反乱直前に帝位についたニコライ1世は、秘密警察皇帝官房第三部」を創設してプーシキンやミハイル・レールモントフヴィッサリオン・ベリンスキーアレクサンドル・ゲルツェンら数多くの文学者・思想家を追放や流刑に処したが、その一方では、貴族に農奴への一定面積の土地支給を強制する法律1827年)はじめ、土地売買による農奴家族の分散の禁止(1833年)、家族から分離しての農奴の売買禁止(1841年)、土地を所有しない貴族による農奴の取得禁止(1843年)、負債の支払いのために売却された土地に住む農奴に対し、土地付きで人格の自由を買い取ることを許可する法律(1847年)、農奴に不動産購入権を認める法律(1848年[注釈 6])など、つぎつぎに農奴の待遇改善に資する農業立法をおこなった[25][26]。ニコライ1世は、農奴は個人の所有物であるという当時の貴族社会の通念とは一線を画し、あくまでもロシア帝国の有用な臣民であるという立場に立っていたが、一連の法令は、いわば、農民を貴族領主ではなく土地の「隷属者」にするという性格をもっており、ただちに農奴解放につながるものではなかった[26]

「農奴解放令」を発したが、1881年に暗殺されたアレクサンドル2世

1856年クリミア戦争の敗北は、その前年に父ニコライ1世の後を継いだ新皇帝アレクサンドル2世に近代化の必要性を痛感させた。この時点で、貴族領主に人格的に隷属させられた農奴は全農民の半数近い約2300万人いたといわれる[注釈 7]。農奴制は諸悪の根源と見なされ、非難の対象となった[27]。後世「解放皇帝」と呼ばれることとなるアレクサンドル自身は、伝統的な領土拡張主義政策を踏襲する、保守的な思想の持ち主であったが[5][28]、帝国建て直しの必要に迫られ、進歩的な官僚を登用して改革に取り組んだのであった[29]。皇帝は戦争終結の詔勅において「大改革」の意向を明らかにし、さらに貴族たちの前で従前より懸案であった農奴解放について演説をおこない、「下からよりは、上からこれを行うべきである」と宣言した[27][30][31]

「1861年2月19日の読書」グリゴリー・ミャソエドフ画(1873年、トレチャコフ美術館[32]
1861年勅令(いわゆる「農奴解放令」)を読む農奴たち

皇帝アレクサンドル2世は露暦1861年2月19日(グレゴリオ暦では同年3月5日)、農奴解放令を発布し、これにより、地主保有の農奴に人格的な自由と土地が与えられた[27]。さらに、1863年には帝室領農奴が、1866年には国有地農奴がそれぞれ解放された[33]。しかし、農地は無償分与されたわけではなく、政府が地主に対して寛大な価格で買戻金を支払うことと定められ、解放された農奴は国家に対してこの負債を支払わねばならなかった[27][30][注釈 8]。また、土地の3分の1程度は領主の保留地となる場合が多く、農奴だった者は多くの場合、耕作地をせばめられた上にやせた土地が割り当てられた[27][34]。そして、大抵の分与地は農村共同体(ミール)が集団的に所有し、農民への割り当てと財産に関するさまざまな監督をおこなったため、農奴だった者は領主に代わって農村共同体に自由を束縛されることとなったのである[27][30]

こうして、農奴制は法的には廃止されたものの、解放からしばらくの間、農民の生活は以前よりかえって苦しくなり、解放令の内容に不満をいだいた農民による暴動が各地で起こった[27][34]。アレクサンドルの「大改革」は、農村における絶対権力を失った地主貴族にとっても、土地を購入しなければならなくなった農民にとっても不満ののこるものであった[5]。ただし、新しい政治勢力にとってはひとつの光明となったこともまた事実であった[5]

経済的には、この改革によりロシアでも農村プロレタリアが創出され、ロシア資本主義発展の基礎がつくられ、19世紀後半に進展するロシア工業化の一要因となった[33]


注釈

  1. ^ 東ローマ皇帝キプチャク汗をさす称号であった「ツァーリ」を自称するようになったのもイヴァン3世が始まりである。ロシア唯一の君主となったモスクワ大公は、それまでの独立諸公国の君主であった者を貴族としてその支配体制に編入していったが、ここでは、貴族ですら大公の「奴隷」を自称した。栗生沢(2002)p.105
  2. ^ 1粒のライ麦の種からわずか3ないし4粒ほどの収穫しか得られなかったという。土肥(2002)pp.182-183
  3. ^ シベリアに流されたラジーシチェフは、イルクーツク日本からの漂流民大黒屋光太夫と会見している。
  4. ^ しかし、フランス革命とそれにつづくナポレオン戦争のため、ロシアは対仏大同盟に参加し、イギリス陣営にもどることを余儀なくされた。パーヴェル1世自身も、ナポレオン戦争期の1801年に近衛隊のクーデターによって暗殺された。
  5. ^ ニコライ1世に呼び出されたプーシキンは、デカブリストの乱のときに首都にいたらどうしたかと皇帝に尋ねられたのに対し、反徒の仲間に加わっていただろうと正直に答えたが、皇帝はプーシキンの流刑を解いた。土肥(2002)p.219
  6. ^ 農奴の不動産購入権については、あくまでも領主の承諾を前提条件としていた。倉持(1994)p.155
  7. ^ 1851年統計では、領主(貴族所有)農民男子が約1099万人、国有地農民男子が約960万人、御料地(帝室領)農民男子が約127万人、さらに領主の家内奴隷としてはたらく下僕が53万人いた。それぞれ、男性の人口の40.4パーセント、35.3パーセント、4.7パーセント、1.9パーセントを占めた。土肥(1994)pp.190-191
  8. ^ 政府に対して買戻金の返済義務を負ったかつての農奴は「一時的義務負担農民」と呼ばれた。かれらは49年賦を課せられたが、これを支払うことができず、結局1907年に全額廃止されている。岩間他(1979)pp.315-316
  9. ^ プロイセンでは1807年ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタインによってなされ、シュタイン失脚後はカール・アウグスト・フォン・ハルデンベルクによって引き継がれた諸改革(「シュタイン・ハルデンベルクの改革」)によって農奴の土地緊縛や経済外的強制は終わりを告げた。それ以後の農業経営は一般にユンカー経営といわれる。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 相田(1975)pp.408-412
  2. ^ a b 栗生沢(2002)pp.104-106
  3. ^ a b 栗生沢(2002)p.110
  4. ^ a b c 栗生沢(2002)pp.116-119
  5. ^ a b c d e f g h i j 『ラルース 図説 世界人物百科III』(2005)pp.247-250
  6. ^ a b c d 栗生沢&土肥(2002)pp.146-150
  7. ^ 土肥(1996)
  8. ^ a b c d e f 土肥(2002)pp.164-167
  9. ^ a b c d 土肥(2002)pp.182-185
  10. ^ a b c d e f g h 土肥(2009)pp.45-46
  11. ^ a b c d e 土肥(1994)pp.76-77
  12. ^ 土肥(2002)pp.188-189
  13. ^ a b c d e f g ウォーラーステイン(1997)pp.202-203
  14. ^ a b 土肥(2002)pp.189-191
  15. ^ a b c d 土肥(1994)pp.83-88
  16. ^ ウォーラーステイン(1997)p.203。原出典はLongworth(1979)
  17. ^ a b c d 『ラルース 図説 世界人物百科II』(2004)pp.422-427
  18. ^ 鳥山(1968)pp.314-316
  19. ^ ウォーラーステイン(1997)pp.167-168。原出典はRegemoter(1971)
  20. ^ a b c 土肥(2002)pp.197-200
  21. ^ a b c 外川「デカブリストの乱」(2004)
  22. ^ 倉持(1994)pp.171-172
  23. ^ 和田(2004)pp.219-220
  24. ^ a b 倉持(1994)pp.174-175
  25. ^ 外川「ニコライ(1世)」(2004)
  26. ^ a b 倉持(2001)pp.154-157
  27. ^ a b c d e f g 鳥山(1968)pp.328-332
  28. ^ 松田(1990)p.45
  29. ^ 鈴木(1994)pp.202-203
  30. ^ a b c 栗生沢(2010)pp.92-94
  31. ^ 土肥(2007)p.211
  32. ^ 中野京子『名画で読み解く ロマノフ家12の物語』光文社、2014年、163頁。ISBN 978-4-334-03811-3 
  33. ^ a b 『世界史を読む事典』(1994)p.117
  34. ^ a b 松田(1990)pp.51-54
  35. ^ ウォーラーステイン(1997)p.163, pp.167-168
  36. ^ ウォーラーステイン(1997)pp.167-168。原出典はCrosby(1965)
  37. ^ a b ウォーラーステイン(1997)pp.203-204





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