トーマス・エジソン 家族と友人

トーマス・エジソン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/26 14:53 UTC 版)

家族と友人

エジソンは生涯に2度結婚しており、それぞれ3人ずつ6人の子をもうけている。

1度目の結婚

1871年12月25日に、自社の子会社の従業員であった16歳のメアリー・スティルウェルと最初の結婚をした[22]。メアリーとの間には1873年にマリオン・エジソン、1876年にトーマス・エジソン・ジュニア[23]、1878年にウィリアム・エジソンの3人の子が生まれたが、多忙だったエジソンがあまり家に寄りつかなかったこともありメアリーは引きこもりがちになり、次第に体調を崩していき1884年8月9日に29歳でこの世を去った[24]

妻、ミナ(1906年)

2度目の結婚

メアリーの死後、エジソンは同じく富裕な発明家・実業家であったルイス・ミラーの娘である20歳のミナ・ミラー(Mina Miller Edison、1865年 - 1947年)と1886年2月24日にオハイオ州アクロンで結婚した[25][26]。ミナとの間には、1888年にマドレーン・エジソン、1890年にはエジソン死後にエジソンの事業を引き継ぐとともに政治家となってニュージャージー州知事やアメリカ海軍長官代行を務めたチャールズ・エジソン、1898年には父同様、発明家・環境活動家となったセオドア・エジソンの3人の子をもうけている。ミナはエジソンとの死別をしたのち、1947年に82歳でこの世を去った。なおプロポーズはモールス信号にて行ったという。

友人

自動車王のヘンリー・フォードとは生涯の友人であった。この2人が初めて会ったのは1896年のことであり、当時はフォードはエジソン電灯会社の社員であった[26][27]。フォードが発明したばかりのガソリン自動車の説明をすると、エジソンはテーブルを拳で叩いて喜び、フォードを励ました[28]。その後、1912年にフォードがエジソンに業務提携を持ちかけ、提携自体はうまくいかなかったものの友情は続いた。フォードは1967年、エジソンは1969年に、それぞれ自動車殿堂入りをしている。

フォードはエジソンの親友ではあったものの「発明家としてはともかく、経営者としては三流」とエジソンの経営者としての手腕ははっきりと酷評していた。

晩年の1914年から1924年にかけて2人は毎年、車でキャンプ旅行に出かけていた。老いたエジソンが車椅子生活になると、フォードも車椅子を購入した。二人で車椅子レースをするためだったと伝わる。


注釈

  1. ^ トーマスではなくトマス・エジソンと表記することも多い。また「エジソン」の代わりに「エディソン」「エディスン」と表記する場合もある。
  2. ^ ただし、厳密に言えば、白熱電球に関して言えば、エジソンは数万もの試行を計画・指揮・実行することで実用化に成功した人物なのであって、白熱電球の原理は一応エジソン以前に既に知られており、エジソンの独創というわけではない。
  3. ^ 当時、人々は電球も電線も発電所もない状態で生活しており、たとえば米国では夜間の明りと言えば灯油ランプを用いていた。それがエジソンが実用化した白熱電球によって、人々が夜間に明りを得る方法が一変することになったのである。
  4. ^ エジソンは自分の発明の利益を守ることに非常に熱心であり、そのための訴訟を厭わなかった。そのため、彼の生涯は「1%のひらめきと99%の訴訟」と評されることがある。
  5. ^ エジソンは聴力に障害があったが、彼自身はこの障害を苦にしていた様子はなく、逆に「周りの雑音に悩まされず研究に集中できるから、かえって好都合だ」と語っていたという。晩年にエジソンの研究所火事にあって全焼してしまった時、エジソンは既に67歳の高齢であったが、それでも彼は少しも落胆した様子を見せず、「これでむだな物はすっかりなくなった。これからまた新たな気持ちで新たな研究を始められる」と言ったという。
  6. ^ エジソンは(その発明の独創性については論議の分かれるところであるが)いかなる困難も苦痛だと思わない強靭な精神力と不屈の信念の持ち主であった事に関しては異論の余地がない。彼が数千種類の実験材料を使って数千回の実験を行い、その全てが失敗に終わっても、彼はこれを決して無駄とは見なさず、「実験の成果はあった。これら数千種類の材料が全て役に立たないという事が分かったのだから」と語っていたという。因みにエジソンが生涯で最も手間と費用をかけた発明は自動車用のアルカリ蓄電池で、エジソンはこれを完成させるまでに5万回を超える実験を繰り返したと語っている。
  7. ^ 「いかなる困難や障害も恐れない不屈の信念で発明に取り組んだ」と言われるようなエジソンであったが、その彼が研究を諦めた発明の1つにヘリコプターがある。エジソンが1880年代に考案したヘリコプターは、火薬の燃焼によってエンジンを動かし、プロペラを回転させて空を飛ぶ仕組みであったが、実験の最中に彼が試作した火薬エンジンが爆発事故を起こしてしまった。幸い死傷者は出なかったが、さすがのエジソンも人命に関わる危険な実験をそれ以上続けるわけにはいかず、彼は不本意ながらヘリコプターの開発を断念する事となった。
  8. ^ 当時はまだ義務教育の制度が確立しておらず、家庭の事情などで小学校へ行かない子供もさほど珍しくなかった。
  9. ^ 「自由思想家」という概念については、kotobank 自由思想家なども参照可。
  10. ^ 送電方法について、交流を推進するニコラ・テスラおよびウェスティングハウス・エレクトリック社と対立し、劣勢に立たされ追い込まれたエジソンは、相手の足を引っ張るために一種のネガティブ・キャンペーンを行うことを画策。人々に「交流は危険」との印象を持たせることで、直流になびかせようとしたのである。ニューヨーク市絞首刑に代わる死刑執行方法を募集しているのを知ると、交流電流でそれを行うことで交流の評判を悪くすることを思いつき、交流発電機を使った感電動物実験を重ね、電気椅子を発明し市に提案、その電源に交流が採用されるように画策したのである。その結果、実際に、史上初めて電気椅子による死刑が執行され、そのニュースが新聞で広く報道された。だが、影響はエジソンの目論見どおりにはゆかず、人々の意識に残ったイメージというのは、エジソンが意図していたような「交流は怖い」というイメージではなく、最も強烈に残ったのは「電気での処刑という残虐行為を首謀した恐ろしい人物はエジソンだ」というイメージであった。エジソンは自分の名・評判を汚してしまい、またその背後にいる出資者のJ.P.モルガンまで評判を落としかねない事態となった。また、人々の間におきた反応は、せいぜい「電気は全て怖い」(交流であれ直流であれ怖い。灯油の代わりに電気を使うのは止め、灯油に戻ろうか)という反応であり、電気全体に対するネガティブキャンペーンになってしまった。
  11. ^ こうした概念や考え方は近年では「セレンディピティ」と表現されることもある。

出典

  1. ^ エジソンの葬儀が催された1931年10月21日、全米ではエジソンの功績を讃え、彼の死を弔うため午後10時から1分間電灯が消されるというトリビュート目的のイベントがあった。しかし、その情報がしっかりと行き渡っておらず、突然の停電にパニックになった地域もあった。出典:『トリビアの泉へぇ〜の本 (12)』 2005年。
  2. ^ エジソンの晩年、自動車王のヘンリー・フォードがエジソンを驚かせようとして、エジソンのメンロパーク時代の研究所を忠実に再現した建物を造った。これを見たエジソンは「99.5%は完璧に再現してある。しかし、私は研究所の中をこんなに綺麗にはしていなかった。それが0.5%の間違いだ」と笑いながら言ったという。
  3. ^ エジソンが蓄音機を発明して評判になっていた頃、研究所に後に監督となるジョン・H・ヴィンセント牧師が現れた[29]彼は「機械がしゃべるわけがない。腹話術師でも隠れているのだろうから、いかさまを暴いてやる」と、聖書に登場する難しい人名を立て続けに並べた早口言葉を蓄音機に向かって喋った。しかし、少しの間違いもなく完璧に返答されたので、彼は仰天すると同時にすっかり感心し、エジソンに向かって「あなたに神からの祝福があるように」と言って帰って行ったという[要出典]
  4. ^ ハリウッドが生まれる前のアメリカ映画では、エジソンの会社がアメリカ東部においては映画業界をほぼ独占し、競合他社との間で特許を共有するトラスト(モーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー)を形成して、トラストに参加しない会社の映画製作をマフィアや探偵を使うなどして妨害したり、電流戦争ではテスラへの妨害工作をしたりしていた。
  1. ^ 英語発音: [ˈtɑməs ˈælvə ˈedəs(ə)n]
  2. ^ Gifford Pinchot, The power monopoly ; its make-up and its menace., Milford, 1928, especially Appendix B
  3. ^ a b c LIFE誌 この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人』1999年2月28日(文化面)2024年1月15日閲覧
  4. ^ “コロナ禍「日光を浴びない」という意外な大問題”. 東洋経済オンライン. (2020年5月9日). https://toyokeizai.net/articles/-/349265?display=b 2020年11月30日閲覧。 
  5. ^ a b c d e ブリタニカ百科事典』【エジソン】
  6. ^ a b c d 立本信「エジソンと京都 竹の縁◇父の指示で発明王ゆかりの品収集、子孫と交流も◇」日本経済新聞』朝刊2020年2月28日(文化面)2020年2月29日閲覧
  7. ^ National Historic Landmarks Program (NHL)”. web.archive.org (2011年8月8日). 2022年9月9日閲覧。
  8. ^ Center, Smithsonian Lemelson (2004年4月18日). “Thomas Edison's Inventive Life” (英語). Lemelson Center for the Study of Invention and Innovation. 2022年9月9日閲覧。
  9. ^ Orange, Mailing Address: 211 Main Street West. “Samuel and Nancy Elliott Edison - Thomas Edison National Historical Park (U.S. National Park Service)” (英語). www.nps.gov. 2022年9月9日閲覧。
  10. ^ Orange, Mailing Address: 211 Main Street West. “Edison Biography - Thomas Edison National Historical Park (U.S. National Park Service)” (英語). www.nps.gov. 2022年9月9日閲覧。
  11. ^ The medical mystery that helped make Thomas Edison an inventor” (英語). PBS NewsHour (2018年10月22日). 2022年9月9日閲覧。
  12. ^ Thompson, Derek (2019年10月13日). “Thomas Edison’s Greatest Invention” (英語). The Atlantic. 2022年9月9日閲覧。
  13. ^ Maranzani, Barbara. “Thomas Edison's Near-Death Experience Set Him on the Road to Fame” (英語). Biography. 2022年9月9日閲覧。
  14. ^ Thompson, Derek (2019年10月13日). “Thomas Edison’s Greatest Invention” (英語). The Atlantic. 2022年9月9日閲覧。
  15. ^ Error Page” (英語). edison.rutgers.edu. 2022年9月9日閲覧。
  16. ^ Vote Recorder - The Edison Papers ニュージャージ州立大学 (2016年10月28日)2018年8月14日閲覧
  17. ^ ターベル (1975)
  18. ^ Edison Manufacturing Company [us] IMDb
  19. ^ “Rev. S. Herben Dead at 75”. The Courier-News: pp. 11. (1937年2月23日). https://www.newspapers.com/clip/18254003/rev-s-herben-dead-at-75/ 2022年9月9日閲覧。 
  20. ^ Is Thomas Edison's last breath preserved in a test tube in the Henry Ford Museum?”. 2007年8月20日閲覧。
  21. ^ Neil Baldwin『Edison: Inventing the Century』University of Chicago Press、2001、408頁。 
  22. ^ Mary Stilwell Edison
  23. ^ National Historical Park New Jersey, "Thomas Alva Edison Jr", Last updated: February 26, 2015
  24. ^ 椿 正晴 訳『エジソン 20世紀を発明した男』三田出版会、1997年、669頁。ISBN 489583185X 
  25. ^ Mina Miller Edison: A Valuable Partner to Thomas Edison”. edisonmuckers. 2017年5月27日閲覧。
  26. ^ a b David Geary (2016年8月2日). “Learn How Thomas Edison, Mina Miller Fell in Love at Chautauqua”. The Chautauquan Daily. 2017年5月27日閲覧。
  27. ^ Edison and Ford”. The Henry Ford. 2017年6月2日閲覧。
  28. ^ 『人物アメリカ史(下)』ロデリック・ナッシュ、グレゴリー・グレイヴズ著 足立康訳 講談社学術文庫 2007年9月10日第1刷
  29. ^ Vincent, Leon H. (1925). John Heyl Vincent A Biographical Sketch. The Macmillan Company 
  30. ^ エジソンと日本の意外な関係” (2016年12月13日). 2019年11月1日閲覧。
  31. ^ エジソンと京都の竹 エジソンコレクション1” (2015年12月16日). 2019年11月1日閲覧。
  32. ^ “蓄音機の日、アナログ機器で音楽を味わってみては”. マイナビニュース. (2019年7月31日). https://news.mynavi.jp/article/20190731-ogiboy/ 2020年11月28日閲覧。 
  33. ^ 浜田 (2000)
  34. ^ Genius Is One Percent Inspiration, Ninety-Nine Percent Perspiration. (Quote Investigator)
  35. ^ 1932 September, Harper's Magazine, Volume 165, Edison in His Laboratory by M. A. Rosanoff, Start Page 402, Quote Page 406, Column 2, Harper & Brothers, New York.
  36. ^ 友好都市 マイラン村 ※八幡市のサイトでは「マイラン」と表記






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