ジョゼフ・ジョン・トムソン
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Sir Joseph John Thomson ジョセフ・ジョン・トムソン | |
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ジョセフ・ジョン・トムソン(1920) | |
生誕 |
1856年12月18日 マンチェスター チータムヒル |
死没 |
1940年8月30日 (83歳) ケンブリッジ |
国籍 | イギリス |
研究分野 | 物理学 |
研究機関 | ケンブリッジ大学 |
出身校 |
マンチェスター大学 ケンブリッジ大学 |
指導教員 |
ジョン・ウィリアム・ストラット エドワード・ラウス |
主な指導学生 |
チャールズ・バークラ チャールズ・ウィルソン アーネスト・ラザフォード フランシス・アストン ジョン・タウンゼント ロバート・オッペンハイマー オーエン・リチャードソン ヘンリー・ブラッグ マックス・ボルン ポール・ランジュバン |
主な業績 |
電子の発見 同位体の発見 質量分析器の発明 質量電荷比の測定 導波管の提案 |
主な受賞歴 |
ロイヤル・メダル (1894) ノーベル物理学賞 (1906) コプリ・メダル (1914) |
署名 | |
補足 | |
同じくノーベル物理学賞を受賞したジョージ・パジェット・トムソンの父である。 | |
プロジェクト:人物伝 |
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生涯
1856年、マンチェスターのチータムヒルで生まれる。母は地元で織物業を営む一家の出身で、父はスコットランド出身の曽祖父が作った古書店を経営していた(そのため、姓のスペルがスコットランド風になっている)。2歳年下の弟がいる[3]。
まず小さな私立学校に通うようになり、そこで科学への強い興味と才能を示す。1870年、14歳でオーエンズ・カレッジ(後のマンチェスター大学)に進学。両親は機関車メーカーのシャープ・スチュアートの技師になることを望んでいたが、父が1873年に亡くなったことでその道は絶たれた[3]。1876年、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに移る。1880年に数学の学士号、1883年に修士号を取得[4]。1884年、物理学のキャヴェンディッシュ教授職に就任。後に教え子のアーネスト・ラザフォードがその地位を引き継いだ。1890年、同じくケンブリッジ大学の物理学教授を務めていたジョージ・エドワード・パジェット卿の娘と結婚。息子ジョージ・パジェット・トムソンと娘1人をもうけた。トムソンは教育者としても科学に貢献しており、息子や7人の教え子がノーベル賞を受賞している。息子のジョージ・トムソンは電子の波動的性質を証明したことで1937年のノーベル賞を受賞している。
1906年、「気体の電気伝導に関する理論および実験的研究」により、ノーベル物理学賞を受賞。1908年にはナイトに叙せられ、1912年にはメリット勲章を受章。1914年、オックスフォード大学で "The atomic theory" と題したロマネス講演を行った。1918年にはトリニティ・カレッジの学長となり、亡くなるまで務めた。1940年8月30日、死去。遺体はウェストミンスター寺院のアイザック・ニュートンのすぐそばに埋葬された。
1884年6月12日、王立協会のフェローに選ばれ、1915年から1920年まで会長を務めた[5]。
業績
電子の「発見」
かつて物質の最小構成要素である原子はそれ以上分割できないと信じられていたが、1897年、トムソンは陰極線の特性を調べる過程で、原子に電子という粒子が含まれていると結論づけた。トムソンは陰極線が電場によって曲がることを示した(磁場によって曲がることは既に広く知られていた)。電場と磁場によって陰極線が曲がる様子を比較することで、トムソンは陰極線を構成する粒子の比電荷を測定し、その粒子の質量が最も軽い原子である水素原子の1000分の1程度の軽さだと推定した。彼は、陰極線が負の電荷を帯びた非常に軽い粒子で構成されていると結論付け、その粒子を「微粒子(corpuscles)」と名付けた。ただし呼称については、少し前の1891年にジョージ・ジョンストン・ストーニーが "electron"(電子)という呼称を提案し、それが一般に使われるようになった。
トムソンはこれらの功績から「電子の発見者」と呼ばれることが多い。ただしトムソンが1897年に示したことの多くは、トムソン以前に他の人物によっても報告されており[注 1]、トムソンは電子の受容プロセスに貢献した人物の一人と評価されることもある[注 2]。
トムソンは、電子が陰極線管内の微量の気体の原子から飛び出したと信じていた。そのため、原子は分割可能だとし、電子がその構成要素になっているとした。原子自体は電荷を帯びていないため、正の電荷の球の中に電子が散りばめられているというモデルを提案した。これは「ブドウパンモデル」あるいは「プラム・プディングモデル」と呼ばれる原子模型である。
同位体と質量分析
1913年、カナル線(陽極線)の構成要素を調べる過程で、イオン化したネオンを電磁場で誘導して流れさせ、その偏向を写真乾板に写して測定した。すると2本の線が現れ、2種類の偏向放物線を描いていることが判明した。トムソンはネオンには2種類の質量の原子(ネオン20とネオン22)、すなわち同位体が存在すると結論付けた。これは最初の安定的な同位体発見である。フレデリック・ソディはある種の放射性崩壊を説明するため、これ以前に同位体の存在を予言していた。
トムソンが質量によってネオンの同位体を分離した方法は質量分析法の最初の実施例であり、トムソンの教え子フランシス・アストンやアーサー・ジェフリー・デンプスターが分析法としてさらに改良・発展させていった。
その他の業績
1905年、トムソンはカリウムの自然な放射性崩壊を発見した[6]。
1906年、トムソンは水素原子に電子が1つしかないことを示した。それまでの理論では電子の個数は任意とされていた[7][8]。
- ^ 例えば、アーサー・シュスター、ピーター・ゼーマン、エミール・ヴィーヘルトはトムソン以前に電子の比電荷を測定し、ゼーマンとヴィーヘルトはそれが非常に軽い(または小さい)荷電粒子だと結論している。また電場によって陰極線を偏向させる実験結果は、1896年にグスタフ・ヤウマンによって発表されている。(マルチネス「科学神話の虚実」、カーオ「20世紀物理学史 上」)
- ^ 20世紀初頭には実際にそのような評価がされていた。トムソンを「電子の発見者」とする狭くて単純化された見方を広めたのはトムソンの弟子たちだったと、イソベル・ファルコナーやE・A・デーヴィスのような物理学史家は指摘している。(マルチネス「科学神話の虚実」)
- ^ “偉人たちの夢 (65)J.J.トムソン”. サイエンスチャンネル. 2019年12月9日閲覧。
- ^ “偉人たちの夢 (65)J.J.トムソン”. サイエンス チャンネル 2020年2月28日閲覧。
- ^ a b Davis, J.J. Thomson and the Discovery of the Electron
- ^ "Thomson, Joseph John (THN876JJ)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
- ^ "Thomson; Sir; Joseph John (1856 - 1940); Knight". Record (英語). The Royal Society. 2011年12月11日閲覧。
- ^ Thomson, J. J. (1905). “On the emission of negative corpuscles by the alkali metals”. Philosophical Magazine, Ser. 6 10: 584–590. doi:10.1080/14786440509463405.
- ^ Hellemans, Alexander; Bryan Bunch (1988). The Timetables of Science. New York, New York: Simon and Schuster. pp. 411. ISBN 0671621300.
- ^ Thomson, J. J. (June 1906). “On the Number of Corpuscles in an Atom”. Philosophical Magazine 11: 769–781 2008年10月4日閲覧。.
- ^ a b Cathode rays Philosophical Magazine, 44, 293 (1897)
- ^ a b 青柳恵介『風の男 白洲次郎』(新潮社(新潮文庫)、2000年)pp. 51
- ^ 池田潔『自由と規律』(岩波書店(岩波新書)、1949年)pp. 63-64
- 1 ジョゼフ・ジョン・トムソンとは
- 2 ジョゼフ・ジョン・トムソンの概要
- 3 陰極線の実験
- 4 エピソード
- 5 参考文献
- 6 外部リンク
固有名詞の分類
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