ゴットフリート・フォン・クラム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/06 02:32 UTC 版)
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ゴットフリート・フォン・クラム | ||||
基本情報 | ||||
フルネーム | Gottfried Alexander Maximilian Walter Kurt Freiherr von Cramm | |||
国籍 | ドイツ | |||
出身地 | ドイツ帝国・ハノーファー | |||
生年月日 | 1909年7月7日 | |||
没年月日 | 1976年11月9日(67歳没) | |||
死没地 | エジプト・カイロ | |||
身長 | 183cm | |||
利き手 | 右 | |||
バックハンド | 片手打ち | |||
殿堂入り | 1977年 | |||
生涯獲得賞金 | 値なし | |||
4大大会最高成績・シングルス | ||||
全豪 | ベスト4(1938) | |||
全仏 | 優勝(1934・36) | |||
全英 | 準優勝(1935-37) | |||
全米 | 準優勝(1937) | |||
優勝回数 | 2(仏2) | |||
4大大会最高成績・ダブルス | ||||
全仏 | 準優勝(1939) | |||
全英 | 優勝(1937) | |||
全米 | 優勝(1937) | |||
優勝回数 | 2(仏1・米1) | |||
4大大会最高成績・混合ダブルス | ||||
全英 | 優勝(1933) | |||
優勝回数 | 1(英1) | |||
経歴
フォン・クラムは1932年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップドイツ代表選手となり、彼の時代にドイツ・チームは最初の黄金期を迎えた。1934年の全仏選手権で、フォン・クラムは決勝でオーストラリアのジャック・クロフォードを 6-4, 7-9, 3-6, 7-5, 6-3 のフルセットで破り、4大大会初優勝を達成し、以後1936年まで全仏選手権に3年連続決勝進出を果たす。1935年と1936年の2年連続で、フォン・クラムは全仏選手権とウィンブルドン選手権の2大会連続でイギリスのフレッド・ペリーと決勝対決をした。1935年全仏選手権の決勝でペリーに 3-6, 6-3, 1-6, 3-6 で敗れたフォン・クラムは、続くウィンブルドン選手権決勝でも 2-6, 4-6, 4-6 で敗れてしまう。1936年の全仏選手権ではフォン・クラムが勝ち、2年ぶり2度目の優勝を果たすが、ウィンブルドン選手権では2年連続でペリーに 1-6, 1-6, 0-6 のストレートで完敗した。2度目の決勝戦は、ペリーからわずか2ゲームしか奪えない惨敗に終わった。(ペリーのこの優勝は、長らくイギリス人男子選手による最後の優勝になっていたが、2013年にアンディ・マリーが77年ぶりのイギリス人優勝を果たした。)
フレッド・ペリーがプロテニス選手に転向した後は、アメリカのドン・バッジがフォン・クラムのライバルとなった。バッジはフォン・クラムについて、興味深い回想の言葉を多く残している。1937年のウィンブルドン選手権決勝では、フォン・クラムはバッジに 3-6, 4-6, 2-6 のストレートで敗れ、同選手権で3年連続の準優勝に終わった。続いて全米選手権でも初めての決勝に進出したが、ウィンブルドンに続いてバッジに 1-6, 9-7, 1-6, 6-3, 1-6 で連敗している。この年はダブルスで6歳年下の後輩選手ヘンナー・ヘンケル(1915年 - 1942年)とペアを組み、全仏選手権と全米選手権の男子ダブルス部門で年間2冠を獲得した。同じく1937年に、フォン・クラムはヘンケルと2人の女子選手とともに日本を訪れた。ドイツ選手の一行は大阪、東京、名古屋の3会場で「日独対抗戦」に出場し、甲子園コートで開かれた全日本テニス選手権にも出場した。当時の日本のエースだった山岸二郎が2人の挑戦を受けたが、フォン・クラムは全日本選手権の決勝でシングルス・ダブルスともに山岸を破って優勝した。山岸とフォン・クラムは、この年にウィンブルドン選手権の3回戦でも対戦していた。フォン・クラムとヘンケルは1938年の全豪選手権男子ダブルスにも出場し、地元オーストラリアのエイドリアン・クイスト&ジョン・ブロムウィッチ組との決勝まで進出した。
ところが、1938年からフォン・クラムの人生に大きな波瀾が待ち受ける。アドルフ・ヒトラー率いるナチス政権が台頭する中、フォン・クラムはナチズム擁護を拒否したことと同性愛[1] によりゲシュタポに逮捕された。前年に離婚した妻がユダヤ系銀行家の孫であった上に、愛人(男性)もユダヤ人だった。一年間収監される。その間、他国のテニス選手たちが釈放嘆願書をドイツに送った。
戦時中のフォン・クラムは、ロシア戦線の英雄であった。ナチス政権の崩壊により、終戦後に自由の身となったフォン・クラムは、1951年に14年ぶりにデビスカップのドイツ代表選手に復帰する。44歳を迎える1953年まで代表選手を務めたフォン・クラムは、デ杯でドイツ・チーム最多記録となる「82勝19敗」(シングルス58勝10敗、ダブルス24勝9敗)の記録を残した。その後は1955年に長年の友人だったアメリカの大富豪バーバラ・ハットンと結婚し社交界に話題を振りまいた(1959年離婚)。ベルリンにある「ローンテニスクラブ・ロートヴァイス」の会長などを務める。
1976年11月9日、ゴットフリート・フォン・クラムはエジプトの首都カイロ近郊にて、自動車事故のため67歳で死去した。翌1977年に国際テニス殿堂入りを果たしている。
脚注
- 1 ゴットフリート・フォン・クラムとは
- 2 ゴットフリート・フォン・クラムの概要
- 3 外部リンク
固有名詞の分類
国際テニス殿堂入りの人物 |
エリザベス・ライアン モーラ・マロリー ゴットフリート・フォン・クラム アリス・マーブル ハリー・ホップマン |
ドイツのテニス選手 |
アンナ=レナ・グローネフェルド ザビーネ・リシキ ゴットフリート・フォン・クラム ベッティーナ・バンジ フリードリヒ・トラウン |
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