アレクサンドル・スクリャービン 生涯

アレクサンドル・スクリャービン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/20 18:27 UTC 版)

生涯

生い立ちと学生時代

少年時代のスクリャービン(1879年)

モスクワの小貴族(軍人貴族)の家系に生まれる。祖先はタタール系であるとされる。父親は中近東の言語や政情に通暁した外交官として国内外を飛び回って家庭を顧みず、母のリュボーフィ・ペトロヴナはスクリャービンを生んでまもなく産褥熱で急死した。このため叔母リューバの監督下で育つ。ちなみにスクリャービンの亡母はモスクワ音楽院に学び、テオドル・レシェティツキにも師事してアントン・ルビンシテインに祝福されたピアニストであった。イギリスのロシア正教会スールジ主教区の府主教アンソニー・ブルームは母方の甥である。

1880年頃のズヴェーレフと学生達。左から2番目(手前の一番左に座っている人物)がスクリャービンであり、右から4番目(奥の右から2番目に立っている人物)がラフマニノフである。

幼児期からピアノを始める。10歳で自ら望んで陸軍兵学校に進むが[1]、小柄で虚弱なことと学業が優秀なこと、そして楽才が顕著なことから、特別にモスクワ音楽院への通学が認められ、14歳から院長セルゲイ・タネーエフに作曲と音楽理論を、ニコライ・ズヴェーレフにピアノを師事。もともと即興演奏を好む少年だったが、この頃から作曲したものを五線譜に残すことを習慣付けるようになる。1888年から周囲の勧めで、正式にモスクワ音楽院に転学、ピアノ科でワシーリー・サフォーノフに、作曲科でアントン・アレンスキーに師事する。同級生にセルゲイ・ラフマニノフがいた。気難しく扱いにくい性格のあったスクリャービンにアレンスキーは手を焼いた。結局スクリャービンは作曲科を修了することが出来ず、ピアノ科のみで単位を取得した。このころ作曲家としてはラフマニノフが、ピアニストとしてはスクリャービンが有望視されていた。ピアノ卒業試験においては、ラフマニノフが1位、スクリャービンが2位であった。

作曲家スクリャービンの誕生

手の大きかったラフマニノフに比べ、10度音程が掴めない程度の手の持ち主だったにもかかわらず、学生時代の同級生ヨゼフ・レヴィーンらと、超絶技巧の難曲の制覇数をめぐって熾烈な競争を無理に続け、ついに右手首を故障するに至った。回復するまでの間に、左手を特訓するとともに、ピアニストとしての挫折感から作曲にも力を注ぐようになる。右手以上の運動量を要求され、広い音域を駆け巡ることから「左手のコサック」と呼ばれる独自のピアノ書法をそなえた、作曲家スクリャービンの誕生であった。「前奏曲」と「夜想曲」からなる『左手のための2つの小品』(作品9)は、当時を代表する作品の一つである。

1891年頃、ミトロファン・ベリャーエフのサークルの同人となり、リムスキー=コルサコフの知遇を得て、生涯に渡る親交を結ぶ。またベリャーエフ出版社から、定期的に作品の出版が開始される。1897年に衝動的に改宗ユダヤ人女性と結婚(この女性との間に娘エレナ・スクリャービナが誕生。エレナは後に音楽学校同級生ウラディーミル・ソフロニツキーと結婚。)するが、これは庇護者ベリャーエフの意向に沿わず、年金がカットされたために、翌1898年から母校モスクワ音楽院のピアノ科教授に就任。教育者としての評価が下されることは少ないが、学生の間では誠実で忍耐強く、学生の意欲を尊重する教師として評判がよく、ウィーン国立音楽大学のピアノ科からスカウトされたほどだった。

変化と発展

1900年頃に撮影されたスクリャービン

1900年頃からフリードリヒ・ニーチェ哲学に心酔し、とりわけ超人思想に共鳴する。その後は神智学にも傾倒し、この2つから音楽思想や作曲に影響を受ける。1902年に作曲に専念するとしてモスクワ音楽院を辞職するが、すでに門人タチヤナ・ド・シュリョーツェルと愛人関係を結んでいた。1904年に家庭を捨ててタチヤナとともにスイスに出奔、西欧各地を転々とする。1908年、タチヤナとの間に息子ジュリアン・スクリャービンが誕生。この頃からロマン派の影響を脱し個性的かつ神秘主義的な作風へと向かう。ロシア暦(ユリウス暦)でのクリスマス生まれだったことも、スクリャービンの神秘主義や、救世主きどりに拍車をかけた。1909年から1910年までブリュッセルに住み、ジャン・デルヴィルらのベルギー象徴主義絵画や共感覚に興味を寄せつつ、ブラヴァツキー夫人の著作にいっそう親しんだ。これにより、自らの芸術を神智学思想を表現するためのものとして考えるようになり、後期の「神秘和音」を特徴とする作品を残す。それとともに前衛的作曲家として国際的に認められるようになった。

終焉

1910年帰国。このころに、アコースティック録音とピアノロールに自作の録音を残し、セルゲイ・クーセヴィツキーセルゲイ・ラフマニノフの指揮で自作の『ピアノ協奏曲 嬰ヘ短調』(作品20)や『交響曲第5番「プロメテ - 火の詩」』(作品60)を演奏。作曲のかたわら国内外で精力的に演奏活動にとり組む。虚弱体質の反動から生涯にわたり健康を気にしすぎる気味があったが、皮肉なことに唇への虫刺されが炎症を起こし、膿瘍による敗血症がもとでモスクワで1915年に43歳で急死した。


  1. ^ 著者吉澤ヴィルヘルム、発行者矢野恵二『ピアニストガイド』株式会社青弓社、印刷所・製本所厚徳所、2006年2月10日、248ページ、ISBN 4-7872-7208-X
  2. ^ 長木誠司編著 『作曲の20世紀 i』 音楽之友社〈クラシック音楽の20世紀1〉、1992年、33頁。ISBN 4-276-12191-4
  3. ^ Scriabin: Complete Piano Sonatas - Roberto Szidon”. AllMusic. 2012年7月27日閲覧。






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