竜神伝説
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「桜ヶ池 (御前崎市)」の記事における「竜神伝説」の解説
平安末期の1169年6月13日、比叡山の皇円阿闍利が、56億7000万年後に現れるという弥勒菩薩に教えを乞うと言い残し、自ら桜ヶ池の底に沈んで竜神(大蛇)となった。 以降、秋の彼岸の中日には赤飯を詰めたお櫃を池に沈めて竜神に供える奇祭「お櫃納め」が行われている。数日後には空になったお櫃が浮いてくると言われ、遠州七不思議のひとつになっている。 桜ヶ池に沈めたお櫃が、同じく竜神伝説の残る長野県の諏訪湖に浮いたことがあるとされ、諏訪湖と地底でつながっているという言い伝えがある。これに関連して、静岡県浜松市の池の平では7年周期で池(幻の池)が湧くという不可思議な現象が起こるが、これは桜ヶ池の竜神が諏訪湖に赴く際に休息するためであるという言い伝えがある。
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竜神伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 22:50 UTC 版)
平安朝の昔、俵藤太秀郷という武勇の誉れ高い武将がいた。ある時、近江国、勢田の橋に60メートルほどもある大蛇が横たわり、往来を妨げていた。そこへ通りかかった藤太は少しも恐れずに、大蛇を踏んで橋を渡った。 その日の夜、美しい女がやってきて、「私は琵琶湖に住む竜神の化身です。今日あなたにお目にかかり、その豪胆さを見込んで、お願いに伺いました。三上山のムカデが、私の仲間を次々に食べてしまうので困っています。どうか退治してください」と話した。藤太は竜神の頼みを快く引き受け、すぐさま山に赴いて、五人張りの弓でムカデを射殺した。お礼にどんな願いでも叶えるという竜神の申し出に、藤太は城端の里を水不足から救うため、竜の子を貰うことにした。 里に戻った藤太が、山中に掘った小さな穴に竜の子を入れ、縄を張りめぐらして祈ったところ、一夜のうちに池が湧き出し、その池が縄ヶ池であるという。
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龍神伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 19:09 UTC 版)
龍穏寺には、以下のような伝承がある。 伝承(1)現在の龍穏寺が建っている場所には、深い淵があった。そこには龍が住み、人々はこれを恐れていた。 第五世住職の雲崗舜徳がこれを退治すると、淵から水があふれ平地となった。 人々はこの平地を開墾し寺を移転した。またその時、寺名を龍穏寺と改めた。 このベースとなる伝承に付随して「太田道灌が雲崗舜徳を招いた」「龍退治の後、雲崗舜徳が住職となった」「龍は有馬山(埼玉県飯能市)に逃れ、大池を作った」「龍は龍神となり、雨乞いをすると有馬山より飛来して雨を降らした」などの逸話がある。また、この伝承は(この類の伝承としては比較的珍しく)成立の年が複数の史料に明記されている。ただし、1439年(龍穏寺縁起)だと〈太田道灌:7歳、雲崗舜徳:1歳〉、1504年(新編武蔵風土記稿)だと〈太田道灌:死去、雲崗舜徳:既に他寺の住職〉となり、いずれも成立しない。そこでこれら複数の史料を統合すると、ほぼ明確な史実としては下記のものが挙げられる。 15世紀後半頃までには、寺が曹洞宗に改まった。 第五世住職・雲崗舜徳の就任に前後して、寺が現在地に移築された。 太田道灌・太田道真は雲崗舜徳に帰依(師事)していた。 何らかの龍退治の伝説が存在していた。 このことから、龍穏寺の改宗・移築に際して、新興勢力であった曹洞宗が在来の伝承を取り込み、地域に溶け込んでいった過程で成立した伝承だと推測される。
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龍神伝説
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「龍神社 (大阪狭山市)」の記事における「龍神伝説」の解説
狭山池に住む雌の大蛇は粟ヶ池(富田林市)に住む雄大蛇に恋をした。狭山池の雌大蛇は雄大蛇が住む粟ヶ池へ毎晩通っていたが、通り道の田畑は荒れ、人や牛は吞み込まれる等被害が絶えず、皆困り果てた。村人は龍神を退治しようとも考えたが、祟りがあってはならないとして、雄大蛇を粟ヶ池から狭山池に迎え入れ、雌大蛇と結婚して一緒に暮らしてもらう事とした。狭山池に祠を建て、その後も祭祀を絶やさないことで、田畑が荒れることはなくなった。 結婚後幾月日かたったある日、河合(松原市)に住む男の夢に美しい男女の若者が現れ、「自分たちは狭山池に住む大蛇で、池の祠で幸せに暮らしている。しかし池だけの生活は息苦しい。ここに私達の祠を建てて、広い大和川まで行けるようにしてほしい。」と話した。男は2人と約束したものの夢か幻かわからず迷っていたが、数日後に男が井戸から不思議なお金を見つけた。夢ではなかったと悟った男は、早速に祠を建てた。 龍神夫婦は、池干し中は西除の滝つぼに移り、池の水がたまると池に戻っていた。西除を中心とする安政の大改修で滝つぼを埋める工事でけが人が続出し、龍神の祟りだと恐れられた。1858年(安政5年)に滝つぼの代わりとなる大きな淵を掘って祠を池中に祭った。これにより池干し中も龍神は淵の底にたまった水に住むことができるようになった。
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龍神伝説
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応永10年5月4日(ユリウス暦:1403年5月24日)、本堂から出火すると近くの二ツ池から雌雄の龍が現れ、雄の龍が火の中から十一面観世音を救出し、雌の龍が水を吹きかけて消火活動を行った。大火から龍神が観音を守ったとの伝説から、毎月末には僧侶が龍神の好物という酒と卵を供える。この伝説をきっかけに、伊勢の写真家・中野晴生は北海道から沖縄県まで全国50の湖沼とそれにまつわる説話を集め、写真集『湖沼の伝説』を新潮社から2000年(平成12年)に出版した。 1982年(昭和57年)、上記の龍神伝説にちなみ、紅白のキリシマツツジ300本を龍の形に植えた。毎年春に先行して咲く赤い花を追うように白い花が咲く。 2006年(平成18年)頃には本堂の床板から龍のような模様が発見され、参拝者の間で「一目見て、触れると願いが叶う」などと話題となり、新たな龍神伝説が生まれた。
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