神智学協会の概略とは? わかりやすく解説

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神智学協会の概略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 01:07 UTC 版)

神智学協会」の記事における「神智学協会の概略」の解説

1875年ロシア出身ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー通称ブラヴァツキー夫人、HPBと略記1831年1891年)、弁護士名誉大佐ヘンリー・スティール・オルコット通称オルコット大佐1832年 - 1907年)、オルコット同僚若き弁護士ウィリアム・クアン・ジャッジ(英語版)(1851年 - 1896年)ら、一握り人々によって「オカルティズムカバラ等々研究解明のために」、ニューヨークで神智学協会設立された。 当時ブラヴァツキー住んでいたアパートでは、オカルト関心のある少数人々定期的に集会開いており、1875年9月会合ではジョージ・ヘンリー・フェルトという人物カバラエジプト秘儀について講演行った。そこでのフェルト精霊に関する議論刺激受けてオルコットはこの種のことを研究する会を組織することを思い立ちブラヴァツキー提案したかくして同年11月17日、「神智学協会」が発足した当初会員18名ほどであったオルコット初代会長となり、初代副会長解剖学教授セス・パンコーストと前述フェルト通信書記ブラヴァツキー選出された。草創期主な会員には元霊媒エマ・ハーディング・ブリテン著名なフリーメイソンのチャールズ・サザラン、ニューヨーク心霊協会会長ヘンリー・ニュートン、ニューヨーク来ていたロンドン弁護士チャールズ・マシィなどがいた。 団体名に「神智学」という言葉を使うことを提案したのはチャールズ・サザランであった。他に、医学者アレクサンダー・ワイルダー、アブナー・ダブルデイトーマス・エジソンなど、さまざまな人物初期神智学協会参加した1877年ブラヴァツキー主著ヴェールを剥がれたイシス』(Isis Unveiled: A Master-Key to the Mysteries of Ancient and Modern Science and Theology)が出版される1878年創立時からの会員である英人チャールズ・マシィが帰国して英国神智学協会」が設立されるオルコットらはヒンドゥー教改革団体アーリヤ・サマージとの提携決め12月オルコットブラヴァツキー数名インド向けて出立1879年ボンベイ(現ムンバイ)を拠点インドでの活動開始し雑誌神智学徒(英語版)』創刊1880年ブラヴァツキーインド有力な英字紙編集者であったアルフレッド・パーシー・シネット(英語版)の夏の別荘滞在中、シネットの求めに応じて大師クートフーミから返信の手紙が届き以後数年間に及ぶマハトマたちとの文通開始されるA・P・シネット宛マハトマ書簡)。 1882年マドラス(現チェンナイ南郊のアディヤール (Adyar;アダィヤール [Adayar] とも) に神智学協会本部設立される1883年協会本部内に設けられ密閉されているはずの厨子中にマハトマ書簡頻繁に出現するうになるアンナ・キングスフォード英語版)が英国神智学協会加入、ロンドン・ロッジの長となるも、キリスト教神秘主義志向したキングスフォードは帰国したA・P・シネットらのインド派と対立、シネットが同ロッジ会長となる。 1884年ブラヴァツキーオルコット欧州旅行に出る。おおぜい聴衆迎えられ多く名士知識人新聞記者らが見に来る。これに伴いドイツでは「ゲルマン神智学協会」が設立される。アンナ・キングフォードは自身率いるヘルメス・ロッジを「ヘルメス協会」に改組して神智学協会から独立。アディヤール本部家政任されていた元使用人エマ・クーロンは、マハトマ書簡その他のさまざまな奇蹟虚偽だったと暴露し「奇跡」起こすように指示したブラヴァツキーの手紙を公開クーロン事件)。これを機にロンドン心霊現象研究協会会員リチャード・ホジソン現地派遣し同年末、ブラヴァツキーヨーロッパから帰還する前に調査開始されるチャールズ・ウェブスター・レッドビータ協会に加わる。 1885年、「マハトマ書簡」の筆跡ブラヴァツキーのそれと同じであり、ブラヴァツキー巧妙な詐欺師だと断定するホジソン報告書発表され(ホジソン・レポート)、協会決定的な打撃を受ける。ブラヴァツキー混乱避けてヨーロッパ舞い戻りオルコットインドに残る。ホジソン・レポートの打撃克服するため、ブラヴァツキー隠棲先のヴュルツブルク原稿書き始める。 1887年先の不祥事による混乱沈静化すると、ブラヴァツキーイギリスロンドン移り小説家メイベル・コリンズ(英語版)の家に逗留。ロンドン・ロッジとは別にブラヴァツキー・ロッジを開設し機関誌ルシファー英語版)』が創刊される。 1888年ブラヴァツキー2年間に書き溜め原稿が第2の主著シークレット・ドクトリン』(The Secret Doctrine)として出版されるブラヴァツキーロッジ内に「秘教部」が創設される1889年、後に協会中心となる社会活動家アニー・ベサントが加わる。 1891年ブラヴァツキー死去後継者としてアニー・ベサント指名するが、権力闘争となる。 1895年アメリカジャッジと、インドオルコットベサント決別アメリカジャッジ組織は「アメリカ神智学協会」として分離独立この分以降オルコットベサント率いインドヨーロッパ派閥をアディヤール派(英語版)と呼称する)。 1896年米神学協会率いたジャッジ死去し、キャサリン・ティングリー(英語版)がその運営引き継ぐ(この派は後にサンディエゴ近くポイントロマコミュニティー築きポイント=ローマ派と呼ばれる。)。ティングリーが各地自派正統性訴えると、これに呼応してベルリン米神学協会傘下の「ドイツ神智学協会」が設立され医師フランツ・ハルトマン(英語版)がその指導者となる。 1897年、フランツ・ハルトマン、ミュンヘンで「国際神智学同胞会」という分派設立翌年ライプツィヒ移動)。 1902年会員一人ルドルフ・シュタイナーベルリン神智学協会(アディヤール派)のドイツ支部設立その事総長就任同地シュタイナー雑誌『ルツィフェル』を発刊(後に『ルツィフェル=グノーシス』に改名)。 1907年オルコット死去ベサントインド神智学協会現神学協会アディヤール派(英語版))のトップ就任1909年チャールズ・ウェブスター・レッドビータインド人少年ジッドゥ・クリシュナムルティ見出しベサント養子として英才教育を施す。ロバート・クロスビーが米神学協会ポイント=ローマ派)から分かれて「ユナイテッドロッジ」(en:United Lodge of Theosophists)を結成イギリス会員G・R・Sミード英語版)が脱退してクエスト協会」を設立1912年神智学協会第2代会長であったベサントとレッドビータがクリシュナムルティ世界教師(=キリスト再来)とする動き反発しルドルフ・シュタイナー神智学協会脱退1913年シュタイナー分離独立人智学協会アントロポゾフィー協会)を設立1923年米国神智学協会(アディヤール派)に関わっていたアリス・ベイリー独立して「アーケイン・スクール」(不朽の知恵秘教占星学)を発足させる1925年ベサントクリシュナムルティトップとする「東方の星教団英語版)」設立ディオン・フォーチュンの『コスミック・ドクトリン』が発表されフォーチュン神智学協会キリスト教神秘主義ロッジ会長となる(1927年まで在任)。 1929年クリシュナムルティ本人が「真理集団追求するものではない」との考えに基づき、「東方の星教団」を解散する宣言行い神智学およびすべての宗教から離れるインドスリランカなど一部除き神智学協会多く組織離反協会大部分消滅する1934年、レッドビータ死去。アディヤール派はベサントとレッドビータの著作をもとに〈神智学〉を再構築ネオ神智学)。内容ブラヴァツキーのものと幾分異なる。

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