白菊
読み方:シラギク(shiragiku)
貝
白菊
白菊(しらぎく)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 23:27 UTC 版)
豪が江戸時代にタイムスリップした際に出会った遊女。過去になんらかのトラウマがあるのか、「目交わっている男女がカエルに見えていたすことができない」という遊女としては致命的な欠点がある。水揚げ(客と床入りする遊女の初仕事)の際に過度の緊張からお客(榊のご隠居)の前で嘔吐してしまうという大失態を犯してしまった。
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白菊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)
元弘三年九月十三夜三首歌講ぜられし時、月前菊花といへる事をよませ給うけるうつろはぬ 色こそみゆれ 白菊の 花と月との 同じ籬(まがき)に(大意:決して色褪せずに、移ろわないものも、この世にはある。粗い垣根の上、白く輝く月に照らされた白菊の花、そのように花と月がお互い支え合って光る姿は、美しい。為子、私はあれから20年以上経った今でも、あなたの「月ならで うつろふ色も…」という白菊の歌を覚えているよ。あなたは白菊がすぐに色褪せることを悲しんだが、嘆くには当たらない。たとえ花の色が移ろうとしても、人の想いは、歌という形で、永遠に受け継がれるのだから) —後醍醐天皇御製、『新葉和歌集』秋下・386 後醍醐の皇太子時代の最初の正妃は、二条派を代表する大歌人である二条為子だったが、応長元年(1311年)もしくは翌年ごろに死去した。それから20年以上後の元弘3年(1333年)9月13日の夜、為子の代表歌である「月ならで うつろふ色も 見えぬかな 霜よりもさきの 庭の白菊」(『続後拾遺和歌集』秋歌下・381) を参考歌にして詠んだ一首である(為子の歌の詳細については、二条為子#白菊を参照)。
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白菊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 15:14 UTC 版)
月ならで うつろふ色も みえぬかな 霜よりもさきの 庭の白菊(大意:永遠に輝く月とは違って、すぐに色褪せて移ろいゆくものなのですね。古い歌では、白菊は真っ白すぎて、月明かりの下では色が溶け込んで見えなくなるとか、初霜に紛れて見分けが付かなくなる、などと飾って言うものです。でも、今、庭に咲く白菊を見てみたら、初霜が降る季節の前だというのに、もう色褪せ始めて、月明かりの下でもはっきり見えるようになってしまいました――幾千世までも月のように輝き続けるあなたに見合うような、白菊の挿頭(かざし、冠につける飾り)を作ろうと思っていたのですが) —贈従三位為子、『続後拾遺和歌集』秋下・381 この歌は、室町時代中期の猿楽師(能楽師)である観世信光(観阿弥の曾孫)による能『紅葉狩』の次第(曲目の主題となる導入歌)に、「人こそ見えぬ秋も来て、庭の白菊うつろふ色も、憂き身の類とあはれなり」として引用された。なお、『紅葉狩』の引用では、前半部が、恵慶法師の「八重葎 茂れる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋は来にけり」(『拾遺和歌集』秋)の後半部と融合している。 また、後醍醐天皇も、建武の新政を開いた後に行われた元弘3年(1333年)9月13日の歌会で、為子の歌を参考歌にしたと思われる和歌を詠んでいる(『新葉和歌集』秋下・386)。詳細は後醍醐天皇#白菊。
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白菊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 18:15 UTC 版)
京都で出会った舞妓。恋人がいるが、政治家に大金で身請けを迫られていた。その政治家のやりように嫌悪感を抱いた一平に助けられ、恋人と結ばれた。
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白菊
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