しゅういわかしゅう〔シフヰワカシフ〕【拾遺和歌集】
拾遺和歌集
主名称: | 拾遺和歌集 |
指定番号: | 2219 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1969.06.20(昭和44.06.20) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 書跡・典籍 |
ト書: | |
員数: | 1帖 |
時代区分: | 鎌倉 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 鎌倉時代の作品。 |
拾遺和歌集〈上(寂恵本)/〉
主名称: | 拾遺和歌集〈上(寂恵本)/〉 |
指定番号: | 2226 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1970.05.25(昭和45.05.25) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 書跡・典籍 |
ト書: | |
員数: | 1冊 |
時代区分: | 鎌倉 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 「拾遺集」(二十巻)は古今・後撰につぐ三番目の勅撰和歌集で、十一世紀初頭に成立した。本帖は巻上十巻のみで下巻を欠くが、奥書によると、巻第一・二・十を鎌倉後期の歌人寂恵が書写し、その他の七巻は別人に書写させて、糟屋賢郎に歌説を伝受したものである。定家本系に属し、鎌倉時代書写の数少ない拾遺集の古写本として、「寂恵本」の名で知られている。 |
拾遺和歌集〈上下/〉
主名称: | 拾遺和歌集〈上下/〉 |
指定番号: | 2344 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1978.06.15(昭和53.06.15) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 書跡・典籍 |
ト書: | 寛元三年六月九日真観書写本奥書 |
員数: | 2帖 |
時代区分: | 南北朝 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 平安時代の勅撰集である拾遺和歌集の南北朝時代の古写本である。拾遺和歌集の伝本は藤原定家の校訂を経たもので、冷泉家本と二条家本の二系統に分かれるが、本書は後者に属する。二条家相伝の本奥書に続いて真観の本奥書を掲げて、二条家本の正しい系統を示した古鈔本として注目される。 |
拾遺和歌集
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/14 14:21 UTC 版)
『拾遺和歌集』(しゅういわかしゅう)は、『古今和歌集』『後撰和歌集』に次ぐ第三番目の勅撰和歌集で[1]、いわゆる「三代集」の最後にあたる。一条天皇の代、寛弘2年(1005年)から寬弘4年の間の成立か[1]。
概要
古来、花山院の親撰もしくは花山院が藤原長能・源道済に撰進させたといわれてきたが、確証はない[1]。花山天皇が退位した後、和歌趣味によって編まれた歌集であり[1]、勅撰集としての手続きなどは疎かにされた[1]。そのため、藤原公任撰と言われる私撰集『拾遺抄』がむしろ勅撰集として扱われた[1]。『拾遺和歌集』が勅撰集として認知されるのは、藤原定家『三代集之間事』以降である[1]。
成立事情が曖昧であり、古くは『拾遺和歌集』を精選したものが『拾遺抄』と位置づけられていたが[1]、この説が塙保己一によって否定され[1]、両作の比較検討から『拾遺抄』を増補して『拾遺和歌集』が成立したことが確実となった[1]。諸本としては、『拾遺抄』から異本『拾遺和歌集』が生まれ、さらに流布本『拾遺和歌集』が生まれたと推定される[1]。
流布本によれば、歌数は1351首、部立は春・夏・秋・冬・賀・別・物名・雑(上・下)・神楽歌・恋(5巻)・雑春・雑秋・雑賀・雑恋・哀傷の計20巻から成る[1]。雑春・雑秋・雑恋・哀傷といった特異な部立ては、『拾遺抄』の雑の部立てを細分化したためである[1]。
「拾遺」の名は前代の勅撰集に漏れた秀歌を拾い集める意である。収められた歌人は、紀貫之(113首)・柿本人麻呂(104首)・大中臣能宣(59首)・清原元輔(46首)・平兼盛(38首)などで、『万葉集』や『後撰和歌集』の時代の歌人が高く評価されている[1]。また、藤原輔相・藤原順・藤原好忠など独特な歌風を持つ人物や、和泉式部・斎宮女御・藤原道綱母・藤原公任などの当代歌人も登場する[1]。
『拾遺集』は当時の歌壇の流れに乗った平明優美な歌風で、賀歌・屏風歌・歌合など晴れの歌が多い[1]。特に恋歌が優れており、小倉百人一首に8首採られている。
校注文献
- 『八代集2 拾遺和歌集 後拾遺和歌集』 奥村恒哉校注、平凡社〈東洋文庫〉、1986年、ワイド版2008年
- 『拾遺和歌集 新日本古典文学大系7』 小町谷照彦校注、岩波書店、1990年
- 『拾遺和歌集 和歌文学大系32』 増田繁夫注解、明治書院、2017年
文庫判
脚注
拾遺和歌集と同じ種類の言葉
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