町石道とは? わかりやすく解説

高野山町石道

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/18 08:36 UTC 版)

町石道(ちょういしみち)は、慈尊院和歌山県伊都郡九度山町)から高野山和歌山県伊都郡高野町)へ通じる高野山の表参道である。弘法大師が高野山を開山して以来の信仰の道とされてきた。国の史跡高野参詣道」として指定されている[1]ユネスコ世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道』の「高野参詣道」の構成資産の一部として登録されている[2]


  1. ^ a b 高野参詣道”. 国指定文化財等データベース/文化庁. 2019年12月30日閲覧。
  2. ^ a b 世界遺産登録推進三県協議会、2005、『世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道』、世界遺産登録推進三県協議会(和歌山県・奈良県・三重県)、pp.39,75
  3. ^ 高野参詣道(こうやさんけいみち)”. 和歌山県世界遺産センター. 2019年12月27日閲覧。
  4. ^ 和歌山県街道「高野七口」”. 和歌山県. 2019年12月27日閲覧。
  5. ^ a b 高野七口とは”. 高野七口再生保存会. 2019年12月27日閲覧。
  6. ^ 弘法大使が開いた祈りの道”. かつらぎ町観光協会. 2019年12月27日閲覧。
  7. ^ 高野山町石道玉川峡県立自然公園”. 和歌山県. 2019年12月27日閲覧。
  8. ^ 高野山町石道玉川峡県立自然公園案内マップ”. 和歌山県. 2019年12月27日閲覧。
  9. ^ 高野参詣道”. 文化庁. 2020年12月15日閲覧。
  10. ^ 高野七口街道ウォーキングマップ”. 和歌山県. 2019年12月27日閲覧。
  11. ^ 世界遺産の高野山参道、無断掘削の溝 和歌山・かつらぎ町、警察に告発 毎日新聞 2020年6月18日


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町石道

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高野参詣道」の記事における「町石道」の解説

町石道(ちょういしみち)は、和歌山県伊都郡九度山町慈尊院起点とし、高野山内への入り口大門口である。途中三谷道、麻生津道安楽街道細川道などの参詣道合流し大門口に至る。町石道の名前の由来は、参詣道に1町(109 m)ごとに町石建てられていることによる空海弘法大師)によって高野山開創直後設けられ参詣道であり、表参道とよばれ、御幸道とも呼ばれ法皇上皇をはじめ皇族貴族僧侶武士庶民など身分に関係なく、あらゆる人々歩いた参詣道である。参詣道起点となる慈尊院は、816年弘仁7年空海が、高野山開山時に高野山開発拠点し、また参詣道表玄関として伽藍創建し高野山庶務司る政所を置き、高野山参詣のための宿所ならびに冬期避寒修行の場とされた。また晩年空海の母が過ごした場所である。慈尊院がある九度山名前の由来一説に、空海が月に九度(9回)、町石道を通り母に会いに来たからと伝わる。空海実際に歩いたことと、町石自体仏塔供養塔であるため、単なる参詣道としてでなく、高野山開山以来信仰の道とされてきた。 町石起源は、空海高野山開山した頃に、参詣者のために木製卒塔婆を建て道標にしたことに始まる。木製のため鎌倉時代には風雨により朽ちていたため、高野山遍照光院の僧・覚きょう上人(「きょう」は「學」+「攴」)が1265年文永2年)に町石建立発願し、20年歳月をかけ1285年弘安8年)に完成開眼供養が行われた。町石建立際し上皇鎌倉幕府要人などの皇族・貴族、また僧侶庶民など、あらゆる身分人々によって寄進され建てられた。町石建立時の願文に、高さ1丈1尺(約303m)、広さ1尺(約30cm)とあり、花崗岩製である。町石町石卒塔婆とも呼ばれ、石の角柱五輪塔乗せた五輪卒塔婆石柱である。石製である町石卒塔婆としては、大阪箕面市勝尾寺に残る7基の町石につぐ古さであり、建立年が刻まれ町石としては日本最古級である。町石単なる道標ではなく仏塔であり五輪塔拝礼及び参拝対象となる大日如来意味する町石五輪塔は、下から地輪水輪火輪風輪空輪構成され正面には、それぞれ「地」、「」、「火」「風」「空」梵字刻まれている。また、地輪石柱部分)には、「地」の梵字の下に真言密教根本本尊とされる胎蔵曼荼羅金剛曼荼羅両部曼荼羅仏尊梵字表した種子種字)と壇上伽藍までの町数刻まれ、他にも寄進者名、願意、被供養者名、建立年月日などが刻まれている。町石高野山内の壇上伽藍根本大塔起点とし、慈尊院までの約22キロメートル道中に180基あり、壇上伽藍から奥の院弘法大師御廟まで36基(弘法大師御廟37番目)の計216基が建てられている。これら町石の数は、両部曼荼羅描かれる仏の数にちなむとされ、胎蔵界180尊、金剛界37尊に由来する216基のうち8割以上の174基が鎌倉時代建立されたものが現存し、1基が桃山時代15基が江戸時代26基が大正時代再建されたものである慈尊院隣接する丹生官省符神社へ繋がる石段脇に、壇上伽藍から数えて180番目の町石あり、かつては、天皇上皇御行幸をはじめ、多く参詣者が慈尊院の180番目の町石から、町石1本1本に合掌しながらから高野山向かったと伝わる。平安時代皇室貴族信仰心のみで町石道を登ったが、江戸時代になると多く庶民高野山登るようになり、信仰心だけでなく観光など娯楽要素含め高野山登る者が増え、より楽に早く登れる京大坂道が主要参詣道として置き換えられていった。町石道は、電車車道整備により一時廃れたが、近年整備されハイキングコースとしての利用や、四国八十八箇所歩き遍路結願した者が、高野山奥の院お礼参りする際に、空海弘法大師)も実際に歩いた町石道をたどる、お礼参り道として利用されている。 起点となる慈尊院。左に見え石段は、丹生官省符神社への参道参詣道置かれ町石 町石道 弘法大使袈裟掛けたと伝わる「袈裟掛石」

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