高野山町石道
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町石道(ちょういしみち)は、慈尊院(和歌山県伊都郡九度山町)から高野山(和歌山県伊都郡高野町)へ通じる高野山の表参道である。弘法大師が高野山を開山して以来の信仰の道とされてきた。国の史跡「高野参詣道」として指定されている[1]。ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の「高野参詣道」の構成資産の一部として登録されている[2]。
- ^ a b “高野参詣道”. 国指定文化財等データベース/文化庁. 2019年12月30日閲覧。
- ^ a b 世界遺産登録推進三県協議会、2005、『世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道』、世界遺産登録推進三県協議会(和歌山県・奈良県・三重県)、pp.39,75
- ^ “高野参詣道(こうやさんけいみち)”. 和歌山県世界遺産センター. 2019年12月27日閲覧。
- ^ “和歌山県街道「高野七口」”. 和歌山県. 2019年12月27日閲覧。
- ^ a b “高野七口とは”. 高野七口再生保存会. 2019年12月27日閲覧。
- ^ “弘法大使が開いた祈りの道”. かつらぎ町観光協会. 2019年12月27日閲覧。
- ^ “高野山町石道玉川峡県立自然公園”. 和歌山県. 2019年12月27日閲覧。
- ^ “高野山町石道玉川峡県立自然公園案内マップ”. 和歌山県. 2019年12月27日閲覧。
- ^ “高野参詣道”. 文化庁. 2020年12月15日閲覧。
- ^ “高野七口街道ウォーキングマップ”. 和歌山県. 2019年12月27日閲覧。
- ^ 世界遺産の高野山参道、無断掘削の溝 和歌山・かつらぎ町、警察に告発 毎日新聞 2020年6月18日
- 1 高野山町石道とは
- 2 高野山町石道の概要
- 3 事件
町石道
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町石道(ちょういしみち)は、和歌山県伊都郡九度山町の慈尊院を起点とし、高野山内への入り口は大門口である。途中、三谷道、麻生津道、安楽街道、細川道などの参詣道と合流し大門口に至る。町石道の名前の由来は、参詣道に1町(109 m)ごとに町石が建てられていることによる。空海(弘法大師)によって高野山の開創直後に設けられた参詣道であり、表参道とよばれ、御幸道とも呼ばれ、法皇・上皇をはじめ皇族や貴族、僧侶や武士、庶民など身分に関係なく、あらゆる人々が歩いた参詣道である。参詣道の起点となる慈尊院は、816年(弘仁7年)空海が、高野山開山時に高野山開発の拠点とし、また参詣道の表玄関として伽藍を創建し、高野山の庶務を司る政所を置き、高野山参詣のための宿所ならびに冬期避寒修行の場とされた。また晩年、空海の母が過ごした場所である。慈尊院がある九度山の名前の由来の一説に、空海が月に九度(9回)、町石道を通り母に会いに来たからと伝わる。空海が実際に歩いたことと、町石自体も仏塔・供養塔であるため、単なる参詣道としてでなく、高野山開山以来、信仰の道とされてきた。 町石の起源は、空海が高野山を開山した頃に、参詣者のために木製の卒塔婆を建て道標にしたことに始まる。木製のため鎌倉時代には風雨により朽ちていたため、高野山の遍照光院の僧・覚きょう上人(「きょう」は「學」+「攴」)が1265年(文永2年)に町石の建立を発願し、20年の歳月をかけ1285年(弘安8年)に完成の開眼供養が行われた。町石建立に際し、上皇、鎌倉幕府要人などの皇族・貴族、また僧侶、庶民など、あらゆる身分の人々によって寄進され建てられた。町石建立時の願文に、高さ1丈1尺(約303m)、広さ1尺(約30cm)とあり、花崗岩製である。町石は町石卒塔婆とも呼ばれ、石の角柱に五輪塔を乗せた五輪卒塔婆の石柱である。石製である町石卒塔婆としては、大阪・箕面市の勝尾寺に残る7基の町石につぐ古さであり、建立年が刻まれた町石としては日本最古級である。町石は単なる道標ではなく、仏塔であり五輪塔は拝礼及び参拝対象となる大日如来を意味する。町石の五輪塔は、下から地輪、水輪、火輪、風輪、空輪で構成され、正面には、それぞれ「地」、「水」、「火」、「風」、「空」の梵字が刻まれている。また、地輪(石柱部分)には、「地」の梵字の下に真言密教の根本本尊とされる胎蔵曼荼羅・金剛曼荼羅の両部曼荼羅の仏尊を梵字で表した種子(種字)と壇上伽藍までの町数が刻まれ、他にも寄進者名、願意、被供養者名、建立年月日などが刻まれている。町石は高野山内の壇上伽藍・根本大塔を起点とし、慈尊院までの約22キロメートルの道中に180基あり、壇上伽藍から奥の院・弘法大師御廟まで36基(弘法大師御廟が37番目)の計216基が建てられている。これら町石の数は、両部曼荼羅に描かれる仏の数にちなむとされ、胎蔵界180尊、金剛界37尊に由来する。216基のうち8割以上の174基が鎌倉時代に建立されたものが現存し、1基が桃山時代、15基が江戸時代、26基が大正時代に再建されたものである。慈尊院に隣接する丹生官省符神社へ繋がる石段脇に、壇上伽藍から数えて180番目の町石があり、かつては、天皇、上皇の御行幸をはじめ、多くの参詣者が慈尊院の180番目の町石から、町石1本1本に合掌しながらから高野山へ向かったと伝わる。平安時代の皇室・貴族は信仰心のみで町石道を登ったが、江戸時代になると多くの庶民が高野山へ登るようになり、信仰心だけでなく観光など娯楽の要素も含め高野山に登る者が増え、より楽に早く登れる京大坂道が主要参詣道として置き換えられていった。町石道は、電車、車道の整備により一時は廃れたが、近年整備されハイキングコースとしての利用や、四国八十八箇所を歩き遍路で結願した者が、高野山奥の院へお礼参りする際に、空海(弘法大師)も実際に歩いた町石道をたどる、お礼参りの道としても利用されている。 起点となる慈尊院。左に見える石段は、丹生官省符神社への参道。 参詣道に置かれた町石 町石道 弘法大使が袈裟を掛けたと伝わる「袈裟掛石」
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