生い立ち: 1953-1978
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「アラン・ムーア」の記事における「生い立ち: 1953-1978」の解説
1953年11月18日に生まれる。共に暮らす家族は醸造所に勤める父アーネストと印刷労働者の母シルヴィア、弟、そして迷信深いが威厳あるヴィクトリア朝風の女家長こと母方の祖母だった。労働者階級の一家は、ムーアの信じるところによると代々ノーサンプトンに住んでいた。父方の祖母は産婆と葬儀屋の役割を兼ねる "deathmonger"(→死売り)と呼ばれる女たちの一人だった記録が残っている。放蕩者だった父方の曾祖父はカリカチュアを嗜んでおり、パブで描いて支払いの代わりにしていたという。それを除けば芸術や文学とは無縁の家系だった。 生まれ育ったノーサンプトンの「バロウズ」地区は英国でも有数の貧困地区で、公共サービスに乏しく非識字率も高かったが、その住民とコミュニティには愛着を持った。幼いムーアは金銭的な豊かさより優先すべきものがあると教えられていた。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}バロウズで自分に誇りを持つには、まっとうな人間であるしかない。横暴な奴に立ち向かうしかない。それは子供のころの私に深く刻み込まれた。人生の指針としては悪くない。 —アラン・ムーア(2012年) 研究者ジャクソン・エアーズは、ムーアは労働者階級の育ちを通じて共同体主義、個人の対等、自主自律の感覚をバランスよく身に着けたと書いている。 5歳で読むことを覚え、地元の図書館から本を仕入れた。SF、魔術、ファンタジー、神話や伝説のように現実から離れたジャンルを好んでいた。初等学校に入学するころコミックを読み始めた。初めは The Topper や The Beezer のような英国の週刊コミック誌 だったが、やがて貨物船の底荷として米国から流れてくる『フラッシュ』『ディテクティヴ・コミックス』『ファンタスティック・フォー』のようなヒーローコミックを漁るようになった。英国の片田舎での暮らしに比べれば、それらに描かれる大都市は未来世界のようだった。自身でもそれらを真似た作品を描き始め、友人に回覧して小銭を集めては子供支援団体に募金したという。 初等教育の終わりにイレブンプラス(英語版)試験に合格し、グラマースクールへの入学資格を得た。そこで教育の高い中流階級と初めて出会い、初等学校でトップの成績だったのが最底辺になったことを知って衝撃を受けた。その後、学校を嫌うようになり、勉強にも興味を持てず、公教育には子供に規則順守、服従、退屈への順応を教え込むための隠されたカリキュラムがあると考えるようになった。 1960年代後半から黎明期のコミックファンジンで詩やエッセイ、イラストレーションを発表し始め、ファン活動を通じてスティーヴ・ムーア(英語版)(血縁なし)など後の共作者の多くと知り合った。また自身でも学校で詩の同人誌 Embryo(→胚、萌芽)を発刊した。ムーアの人格形成には1960年代のカウンターカルチャーが深く根差しており、この時期の作品にも英国のアンダーグラウンド雑誌『Oz(英語版)』の影響が強かった。 1971年、ヒッピー文化に交わる中で覚えたLSDを持ち込んだことが元でグラマースクールを放校された。校長はムーアが在校生の風紀に悪影響を与えるから入学させないようにと近隣の学校に通達を出したという。 LSDは素晴らしい経験だった。人に勧めるつもりはないが、私にとっては、なんというか、現実が確定したものではないという考えを叩きこんでくれた。いつも見ている現実は一つの確かな現実だが、それがすべてではない。まったく違うものが同じくらい確かな意味を持つような、異なる視点が存在する。そう知ることで私は根底から変わった。 —アラン・ムーア(2003年) それから数年間はトイレ清掃や皮なめし工の仕事をしながら実家で暮らした。このころは Embryo を通じて加入したノーサンプトン・アーツ・ラボ(英語版)の活動が数少ない他人との交流の機会だった。アーツ・ラボはジャンルを問わず芸術家が交流する全国的なカウンターカルチャー運動で、ノーサンプトンのグループはせいぜい数十人の無名の集まりにすぎなかったが、ムーアはそこで作詞や劇作、演技に目を開かれた。特に詩の朗読には自身でも天分を感じた。これらの経験は後の執筆や公演活動の基礎となった。 1970年代にはファン活動に熱心ではなくなっていたが、ヒーローコミックは読み続けていた。多くは凡作だと感じたものの、ジャック・カービーの「フォースワールド(英語版)」やフランク・ミラー期の『デアデビル』には引きつけられた。それ以上に熱中したのはユーモア誌『MAD』や、アート・スピーゲルマンとビル・グリフィス(英語版)による Arcade: The Comics Revue 誌だった。後のエッセイでは同誌をアンダーグラウンド・コミックスというそもそもの思想のほとんど完璧な到達点と呼んでいる。 1973年の終わりに同じノーサンプトン生まれのフィリス・ディクソンと交際を始め、市内のアパートで同棲した。その後すぐに結婚してより広いアパートに移り、ガス委員会(英語版)の下請け会社で事務仕事をした。しかし仕事に満足できず、芸術的な活動で生計を立てようと考えた。1977年の秋にフィリスが妊娠すると、赤ん坊の顔を見ると決心が鈍ると考えたムーアは勤めを辞めてコミックを描くことにした。
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