株式会社化
株式会社化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 05:50 UTC 版)
2000年4月に株式会社化および地鉄有限公司への改名が行われ、同年6月に公募により全株式の23%を放出した。同年10月には香港証券取引所に株式上場し、2001年以降は、ハンセン指数の組み入れ銘柄となっている。なお、上場後も香港政府が同社株式の過半数を所有し続けている。さらに、2002年に将軍澳線、2005年には香港ディズニーランドの開園に合わせて迪士尼(ディズニー)線も開通した。
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株式会社化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/13 17:46 UTC 版)
ところが開業直後、工期が延期されたことや、村の負債蓄積により村営での営業が困難となり、建設段階で提案された村と鉄道を分離させる案が再度提案された。今回は村側も経営分離を承認、天理村軽便鉄道は民営化されることになった。 当初は社名を「天理村鉄道股份有限公司」として会社設立が計画されたが、1938年1月の創立総会において、社名を「哈爾浜産業鉄道株式会社」とする株式会社として組織されることが決定、同年2月16日に会社設立の上鉄道を譲渡、天理村軽便鉄道は「哈爾浜産業鉄道」と改称され、1940年12月24日にはさらに「天理鉄道」と改称されている。 この間の鉄道営業の詳細は不明な点が多いが、ガソリン機関車が穀物袋を満載した無蓋車を多数連結して牽引する写真が残されている。また天理村では生産農産物品目が多く、また上述したように哈爾浜近郊という立地条件もありその営業は好調に推移したものと考えられている。 1942年4月1日から天理鉄道の経営は前年に設立された「天理村開拓協同組合」に委託され、そのまま終戦に至っている。
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株式会社化
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戦後、足袋は依然として統制下にあったが、1950年(昭和25年)に統制が解除、このころ東大阪足袋工業は文楽足袋株式会社に改組された。これと前後し、東大阪足袋工業で代表を務めた松井熊栄が独立して株式会社松井商店を設立、文楽足袋への移行期に代表を務めた玉谷豊も独立して玉谷足袋工場(後の玉谷足袋)を設立するなど、再分離が進んだ。当時、足袋製造は利益が見込める事業であり、新規参入も相次いだが、1954年(昭和29年)にナイロン靴下が登場すると、足袋の利用は減少した。文楽足袋は1956年(昭和31年)には100万足以上を生産していたが、その後の数年で生産量は激減した。
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株式会社化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 21:10 UTC 版)
「中部電力 (1930-1937)」の記事における「株式会社化」の解説
岡崎電灯は日露戦争後の好況に乗じて事業の拡大を図り、1907年(明治40年)に資本金3万円の合資会社から資本金50万円の株式会社組織「岡崎電灯株式会社」に改組した。その手続きは、4月8日付で株式会社を設立、6月18日付で合資会社から株式会社への事業譲渡認可を得て、7月2日付で会社設立登記を遂げる、という手順を踏んでいる。設立時の取締役は杉浦銀蔵・田中功平・近藤重三郎の3名、監査役は早川休右衛門ほか1名。次いで翌1908年(明治41年)12月、役員の増員が行われた。このとき取締役に新任された太田善四郎は幡豆郡一色村の農家・政治家で、同郷の田中功平の相談で会社に参加し、以後長く会社に関係することとなる。 改組後の1909年(明治42年)、巴川支流神越川に水利権を得て、周到な準備の下に東大見発電所(出力500kW、東加茂郡賀茂村所在)を着工した。工事は京都帝国大学を卒業したばかりの技師高石弁治が主任として担当している。高石は10年後の1919年(大正8年)に取締役へ上げられ、1922年(大正11年)12月からは社長杉浦銀蔵の下で常務取締役に就任する人物である。その一方、工事中の1910年(明治43年)3月に創業者のうち近藤重三郎が死去し、創業者3名で存命なのは田中功平のみとなった。東大見発電所は着工から2年後の1911年(明治44年)3月に竣工した。 逓信省の資料によると、1908年末時点での供給区域(未開業区域を除く)は現在の岡崎市域のうち額田郡岡崎町・岡崎村・広幡町・岩津村・常磐村大字滝および碧海郡矢作町大字矢作と、豊田市域に含まれる東加茂郡松平村の一部であったが、1912年末時点では幡豆郡西尾町(現・西尾市)、碧海郡安城町(現・安城市)、知立町(現・知立市)、刈谷町(現・刈谷市)、西加茂郡挙母町(現・豊田市)、東加茂郡足助町(同左)、宝飯郡蒲郡町・三谷町(現・蒲郡市)といった地域にも供給している。区域の拡大は東大見発電所竣工を機に周辺都市への進出を積極化させたことによるもので、電灯数は2万灯を越えた。さらに三河地方を越えて知多郡への進出も狙うが、半田方面は地元有力者(知多電灯)に供給が許可されたため東浦村(現・東浦町)のみの供給に留まった。 東大見発電所完成後には需要家に電気鉄道も加わった。岡崎では、街外れに置かれた東海道本線岡崎駅と市街地を結ぶ交通機関として馬が客車を引く馬車鉄道が1899年から運転されていた。周辺都市で路面電車が普及すると岡崎でも馬車鉄道の電化に踏み切ることとなり、1911年10月運営会社の岡崎馬車鉄道は岡崎電気軌道へと改称、翌1912年9月1日より電車運転を始めた(後の名鉄岡崎市内線・1962年廃線)。岡崎電灯では岡崎電気軌道の所要電力すべてを供給しており、その供給高は75キロワットであった(1912年末時点)。 岡崎電灯では東大見発電所が完成するとすぐさま次の発電所建設に取り掛かった。先に触れた東海電気は、瀬戸町での開業後名古屋市へと進出して既存の名古屋電灯に対し競争を仕掛けたが、1907年6月同社に吸収されていた。翌1908年2月、巴川上流部に旧東海電気が建設していた巴川発電所(出力750kW)が名古屋電灯の手により完成し、名古屋方面への送電が開始される。同社はさらに神越川で賀茂発電所(出力450kW)の建設を計画したが、この水利権を1911年7月に岡崎電灯へと譲渡した。水利権を譲り受けた岡崎電灯では需要増加により再び供給力が不足するようになったことから1913年(大正2年)に資本金を倍額の100万円とし(1911年12月増資決議・1913年9月増資登記)、賀茂発電所を着工した。
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