日本社会党との関係
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「ドイツ社会民主党」の記事における「日本社会党との関係」の解説
日本社会党とドイツ社会民主党の出会いは1951年(昭和26年)6月30日から7月3日までフランクフルトで開催された社会主義インターナショナルの結成大会だった。この大会に日本社会党代表として出席した鈴木茂三郎はドイツ社民党のシューマッハーに共感を抱いた。鈴木はこの時のことを1965年(昭和40年)に次のように回顧している。「英国労働党は英国政府の与党であったことにもよるだろうが、社会主義政党としてあるまじき軍備第一主義に固執した。またアジア、アフリカなどの植民地に対する正しい認識を持たず、日本社会党の世界平和のための再軍備反対とか、外交上の中立に対して理解を示そうともしなかった。その英国労働党が社会主義インタの大国的な指導的立場にあったことは社会主義インタの出発を誤らせた」「そうした中で西独の社会民主党党首シューマッハの健在であったことが社会主義インタの正しい支柱となっていた」。 これは当時ドイツ社民党がシューマッハーの指導のもとNATOや自国の再軍備政策に反対したためだが、シューマッハーが再軍備に反対したのは、それがドイツ統一を阻害すると考えたからであり、彼は非武装中立論者だったわけではない。そもそもシューマッハーはソ連共産主義への断固たる反対者だったので、親ソ・非武装中立の立場から再軍備に反対した鈴木とは全く異なる立場だった。しかし「再軍備反対」という表面上の共通項は日本社会党に「シューマッハーのSPDは英国労働党と違う」「日本と西ドイツはアメリカ帝国主義によって抑圧されている同志である」という好印象を抱かせた。 1951年(昭和26年)10月に日本社会党は左派と右派に分裂。左派が躍進する中で日本社会党は、社会主義インターナショナルの反共的な防衛方針への反発を強めていった。しかし日本社会党とドイツ社民党の友好関係は一応続き、1956年(昭和31年)11月のドイツ社民党党首オレンハウアーの訪日(重光葵外務大臣とも会見したが、主たる目的は日本社会党との交流だった)も盛大な歓迎をもって行われた。この時に両党の定期協議の場を作ろうという提案がオレンハウアーから出されたが、日本社会党が社会主義インターナショナルを軽視していたこともあって結局実現せずに終わった。 この後、日本社会党とドイツ社民党の関係は悪化していく。その原因の一つとしては日本社会党左派の社会主義協会の国会議員たちが東ドイツを訪問して「ソ連・東ドイツのドイツ統一案を支持する」という不用意な表明を行ったことである。これは日本社会党全体の方針ではなかったが、両党関係を気まずくした事件となった。もう一つの原因は、ドイツ社民党のゴーデスベルク綱領である。階級政党から国民政党への転換を謡うこの綱領に日本社会党左派は強く反発していた。例えば社会主義協会の機関誌『社会主義』はこの綱領の前身たるドルトムント行動綱領について「はっきりと共産党と一線を画しているばかりでなく、進んで共産党反対の闘争の先頭に立つ態度を明らかにしている。反面階級闘争を否定して、敵階級に対しても『寛大』の原則で臨まねばならないとしている。これはドイツ社会民主党が戦前のワイマール共和国時代の社会民主党に比べても一層後退していることを物語るものであろう」「ドイツ社会民主党がこの綱領からうかがわれる限りでは、完全に階級政党としての性格を放棄して、事実上ブルジョワ既成政党に堕としていることは、同党が議会内の活動だけに主力をおいて、ドイツの民族解放と統一実現のための闘争を狭い議会主義の枠の中に閉じ込めようと躍起の努力を続けていることからも窺われよう」と批判的に論評している。 1959年(昭和34年)2月には後に西ドイツ首相となる西ベルリン市長ブラントが訪日。ブラントは西ベルリン駐留米軍の強化を求めるなど社民党内でも特にアデナウアーに近い外交安全保障観を有していた。特にこの際の訪日はソ連のフルシチョフが1958年11月に「西ベルリンを東ドイツに引き渡してベルリンを自由都市化すべき」という提案を行って以来深刻化していた西ベルリンの危機的状況を国際社会に訴えるために行われたアジア諸国歴訪の一環だったので尚更だった。ブラントには自由を抑圧する共産主義国に媚びへつらい、ひたすら親ソ親中を貫く日本社会党の姿は異様にしか見えなかった。ブラントは「日本の社会主義者と私の間に不和が生じたというのは噂であって事実と反する」と述べながらも、日本社会党の右派と左派の繋がりは理解できないという違和感を書いている。ドイツ社民党にとって、マルクス・レーニン主義者と民主社会主義者が同じ政党で同居することは決して当然ではなかったのである。 ブラント訪日後、日本社会党の方もドイツ社民党のことを「アメリカ帝国主義に抑圧されている同志」というこれまでの視点で見なくなり、両党関係は急速に冷え込んだ。1960年(昭和35年)6月にドイツ社民党はNATOをはじめとする西側軍事同盟体制を容認する立場に転換したが、これは「再軍備反対」「NATO反対」の共同の旗の下に辛うじて保たれていた日本社会党とドイツ社民党の紐帯が断ち切られたことを意味した。 1960年(昭和35年)には社会党右派が民社党として社会党から分離した。民社党はドイツ社民党のゴーデスベルク綱領を高く評価してドイツ社民党との関係を強化していった。一方日本社会党は民社党憎しの感情も加わってますますドイツ社民党や西欧社会民主主義を軽蔑するようになり、1960年代初頭には「SPDの右傾化」を激しく批判した。以降両党関係は完全に冷え切ったものとなった。
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