日本社会党との関係とは? わかりやすく解説

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日本社会党との関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 10:18 UTC 版)

ドイツ社会民主党」の記事における「日本社会党との関係」の解説

日本社会党ドイツ社会民主党出会い1951年(昭和26年)6月30日から7月3日までフランクフルト開催され社会主義インターナショナル結成大会だった。この大会日本社会党代表として出席した鈴木茂三郎ドイツ社民党シューマッハー共感抱いた鈴木はこの時のことを1965年(昭和40年)に次のように回顧している。「英国労働党英国政府与党であったことにもよるだろうが、社会主義政党としてあるまじき軍備第一主義固執した。またアジアアフリカなどの植民地対す正し認識持たず日本社会党世界平和のための再軍備反対とか、外交上の中立に対して理解示そうともしなかった。その英国労働党社会主義インタ大国的な指導的立場にあったことは社会主義インタ出発を誤らせた」「そうした中で西独社会民主党党首シューマッハ健在であったことが社会主義インタ正し支柱となっていた」。 これは当時ドイツ社民党シューマッハー指導のもとNATO自国再軍備政策反対したためだが、シューマッハー再軍備反対したのは、それがドイツ統一阻害する考えたからであり、彼は非武装中立論者だったわけではないそもそもシューマッハーソ連共産主義への断固たる反対者だったので、親ソ非武装中立立場から再軍備反対した鈴木とは全く異な立場だった。しかし「再軍備反対」という表面上の共通項日本社会党に「シューマッハーSPD英国労働党と違う」「日本西ドイツアメリカ帝国主義によって抑圧されている同志である」という好印象を抱かせた。 1951年(昭和26年)10月日本社会党左派右派分裂左派躍進する中で日本社会党は、社会主義インターナショナル反共的な防衛方針への反発強めていった。しかし日本社会党ドイツ社民党友好関係は一応続き1956年(昭和31年)11月ドイツ社民党党首オレンハウアーの訪日重光葵外務大臣とも会見したが、主たる目的日本社会党との交流だった)も盛大な歓迎をもって行われた。この時に両党の定期協議の場を作ろうという提案がオレンハウアーから出されたが、日本社会党社会主義インターナショナル軽視していたこともあって結局実現せず終わったこの後日本社会党ドイツ社民党の関係は悪化していく。その原因一つとして日本社会党左派社会主義協会国会議員たちが東ドイツ訪問してソ連東ドイツドイツ統一案を支持する」という不用意な表明行ったことである。これは日本社会党全体方針ではなかったが、両党関係を気まずくした事件となったもう一つ原因は、ドイツ社民党ゴーデスベルク綱領である。階級政党から国民政党へ転換謡うこの綱領日本社会党左派強く反発していた。例え社会主義協会機関誌社会主義』はこの綱領前身たるドルトムント行動綱領について「はっきりと共産党一線を画しているばかりでなく、進んで共産党反対闘争先頭に立つ態度明らかにしている。反面階級闘争否定して、敵階級に対しても『寛大』の原則で臨まねばならないとしている。これはドイツ社会民主党戦前ワイマール共和国時代社会民主党比べても一層後退していることを物語るものであろう」「ドイツ社会民主党がこの綱領からうかがわれる限りでは、完全に階級政党としての性格放棄して事実上ブルジョワ既成政党に堕としていることは、同党が議会内の活動だけに主力をおいてドイツ民族解放統一実現のための闘争を狭い議会主義中に閉じ込めようと躍起努力続けていることからも窺われよう」と批判的に論評している。 1959年(昭和34年)2月には後に西ドイツ首相となる西ベルリン市長ブラント訪日ブラント西ベルリン駐留米軍強化求めるなど社民党内でも特にアデナウアーに近い外交安全保障観を有していた。特にこの際訪日ソ連フルシチョフ1958年11月に「西ベルリン東ドイツ引き渡してベルリン自由都市化すべき」という提案行って以来深刻化していた西ベルリン危機的状況国際社会訴えるために行われたアジア諸国歴訪一環だったので尚更だった。ブラントには自由を抑圧する共産主義国媚びへつらいひたすら親ソ親中を貫く日本社会党の姿は異様にしか見えなかった。ブラントは「日本社会主義者と私の間に不和生じたというのは噂であって事実反する」と述べながらも、日本社会党右派左派繋がり理解できないという違和感書いている。ドイツ社民党にとって、マルクス・レーニン主義者と民主社会主義者が同じ政党同居することは決して当然ではなかったのであるブラント訪日後、日本社会党の方もドイツ社民党のことを「アメリカ帝国主義抑圧されている同志」というこれまでの視点で見なくなり、両党関係は急速に冷え込んだ1960年(昭和35年)6月ドイツ社民党NATOはじめとする西側軍事同盟体制容認する立場転換したが、これは「再軍備反対」「NATO反対」の共同の旗の下に辛うじて保たれていた日本社会党ドイツ社民党紐帯断ち切られたことを意味した1960年(昭和35年)には社会党右派民社党として社会党から分離した民社党ドイツ社民党ゴーデスベルク綱領高く評価してドイツ社民党との関係を強化していった。一方日本社会党民社党憎し感情加わってますますドイツ社民党西欧社会民主主義軽蔑するようになり、1960年代初頭には「SPD右傾化」を激しく批判した以降両党関係は完全に冷え切ったものとなった

※この「日本社会党との関係」の解説は、「ドイツ社会民主党」の解説の一部です。
「日本社会党との関係」を含む「ドイツ社会民主党」の記事については、「ドイツ社会民主党」の概要を参照ください。

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