ワイマール‐きょうわこく【ワイマール共和国】
【ヴァイマル共和国】(ヴぁいまるきょうわこく)
Weimarer Republik (ヴァイマラー レプブリク)
1919年~33年、ドイツに存在した共和制国家。
1918年初秋、第一次欧州大戦における同盟国の敗北は決定的となりつつあった。
しかし、疲弊し和平を望むドイツ帝国に対し協商国、特にアメリカ合州国は、停戦の条件として「皇帝ヴィルヘルム二世等ドイツ各王国の国王の退位」を要求しており、この受け入れ難い停戦条件に皇帝及び帝国閣僚は停戦協定樹立を決断できずにいた。
加えて国民や軍の将兵の大半も又、戦況劣化から生活を圧迫されながらも犇々と敗戦を迎えつつある帝国の現実を受け入れられずに戦闘を続けていた。
そんな最中の1918年10月29日、ニーデアザクゼン州・ヴィルヘルムシュハーフェン市の軍港にて水兵等は英北海艦隊への特攻作戦を命じられるがこれを拒絶。
続く同年11月3日、先日のヴィルヘルムシュハーフェン港での命令違反を受けて、シュレシュヴィヒ=ホルシュタイン州・キール市の軍港にて水兵等が蜂起し、同市はレーター(労兵協議会)に掌握された。
この反乱は忽ちドイツ全国へと飛び火し、同年11月7日には社会民主党がミュンヘン市にて革命政権を樹立。バイエルン王国国王ルートヴィヒ三世(ルートヴィヒ・ルイトポルト・ヨゼフ・マリア・アロイシュ・アルフレート・フォン・ヴィッテルシュバッハ)は退位した。
同年11月9日、帝国宰相マクシミリアン・フォン・バーデンは皇帝の退位を(それも独断で)宣言し、社会民主党党首フリードリヒ・エーベルトに首相の座を譲り渡した。
これを受けてドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム二世(フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・プロイセン)はオランダへ亡命、同年11月28日に退位宣言に署名、これにてドイツ帝国は終焉を迎えた。(十一月革命)
その後、1919年1月19日に採択されたドイツ国憲法が、ヴァイマル市で開催された憲法評議会に因みてヴァイマル憲法と呼ばれ、以後、1933年にアドルフ・ヒトラーを首班とする「国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)」が政権を取るまでの14年間をヴァイマル共和国と呼ぶ。
関連:十一月革命 ベルサイユ体制 ヴァイマル憲法
ヴァイマル共和政
(ワイマール共和国 から転送)
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ヴァイマル共和政(ヴァイマルきょうわせい、ドイツ語: Weimarer Republik)は、戦間期のドイツに存在した共和政体である。政治体制は1919年8月に制定・公布されたヴァイマル憲法に基づいている。ヴァイマル共和国、ワイマール共和政、ワイマール共和国、ドイツ共和国などとも称されるが、正式な国号はドイツ国(ドイツ語: Deutsches Reich)である。
注釈
- ^ 正確に言うと、新憲法の草案作成はシャイデマン政権以前の社会主義政権の時点で既に始められていた[43]。人民委員政府は公法学教授だったプロイスを内務省次官として招き、プロイスに憲法草案の作成を依頼、1月初めに草案が提出された[43]。
- ^ 林『ワイマル共和国』ではラーテナウの葬儀で演説したことになっているが、『ドイツ史』3、p.146では国会での演説上の発言である。
- ^ 林『ワイマル共和国』では共和国保護法が効果を現したように書かれているが、『ドイツ史 3』p.146では、実際には「十分な効果をあげなかった」と書かれている。当時の裁判官は帝政支持派・保守派が大多数で、裁判結果が右翼に甘く左翼に厳しいものになったのが原因としてあげられている[78][74]。
- ^ 林『ワイマル共和国』p.95では、ヴィルト内閣瓦解の原因は、社会民主党が左傾化したため、人民党との連立に失敗したからだと書かれている。
- ^ マルクス政権も不安定で、1924年5月26日、マルクスが辞任したことで第1次マルクス内閣は倒壊、6月3日には第2次マルクス政権が発足したが、結局それも半年しかもたなかった[98]。なお、マルクス政権はルター政権崩壊の後に再登場する。
- ^ 規定では、第1回目の投票に立候補していなくても、第2回目の投票に立候補できた[103]。
- ^ 1925年12月5日には第1次ルター内閣が辞職[98]、翌1926年1月20日に第2次ルター内閣が成立したが[98]同年5月12日には第2次ルター内閣は辞職[98]、首相職は再びマルクスがつとめることになった[98]。マルクス内閣は比較的長保ちした部類で、同月16日、第3次マルクス内閣が成立[98]、同年12月17日、第3次マルクス内閣辞職[98]、1927年1月29日、第4次マルクス内閣が発足したが[98]、1928年6月12日、第4次マルクス内閣は倒壊[106]、その後は、再びヘルマン・ミュラーが政権を担い、同月28日、第2次ミュラー政権が発足した[106]。
- ^ エーベルト大統領の時代には大統領緊急令は135回発令されている[142]。しかし、その内容は、ほぼ憲法の趣旨に沿ったものである[142]。
- ^ この黙認政策は「寛容政策」とか「より小さな悪論」と呼ばれた[150]。
- ^ 資料によっては日時が多少ずれている。エーリッヒ・アイク『ワイマル共和国史Ⅳ』巻末年表、p.52では、第1次ブリューニング内閣の辞職は10月7日のことで、第2次ブリューニング内閣の成立は、同月9日のことと書かれている。
- ^ ザールラントはヴェルサイユ条約の規定に基づいて、国際連盟管理地域に指定されていた。ザールラントはナチス政権成立後の1935年に、住民投票によってドイツに復帰した。
出典
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- ^ Reichはドイツ語で「帝国、国」の意味だが、英語の empire とは異なる。ライヒを参照のこと。
- ^ 国号については妥協の産物であり、憲法1条には「ドイツ国は共和国である Das Deutsche Reich ist eine Republik.」と記述された。
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- 1 ヴァイマル共和政とは
- 2 ヴァイマル共和政の概要
- 3 概要
- 4 政治制度
- 5 文化
- 6 脚注
ワイマール共和国
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「ヴィルヘルム・アダム (政治家)」の記事における「ワイマール共和国」の解説
1919年から1929年までの間、アダムは専門知識を持つ元軍人としてヘッセン州ランゲンゼルボルトの陸軍技術学校(Fachschule des Heeres)で講師を務め、1929年から1934年まではテューリンゲン州ワイマールの第2陸軍技術学校(Heeresfachschule II)で講師を務めた。これに並行し、アダムは1922年から1924年にかけてフランクフルト大学で学び、1927年には高校教員の資格を取っている。また、1919年以来ランゲンゼルボルト軍人協会(Militärvereins Langenselbold)の一員で、1920年にはドイツ青年騎士団(Jungdeutschen Ordens)の指導者となっていた。1923年にアダムは国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)に入党し、ミュンヘン一揆にも参加した。しかし1926年には脱党してドイツ人民党(DVP)に入党、1929年まで党員であり続けた。
※この「ワイマール共和国」の解説は、「ヴィルヘルム・アダム (政治家)」の解説の一部です。
「ワイマール共和国」を含む「ヴィルヘルム・アダム (政治家)」の記事については、「ヴィルヘルム・アダム (政治家)」の概要を参照ください。
「ワイマール共和国」の例文・使い方・用例・文例
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