年譜・行啓歴
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1894年(明治27年)3月9日の大婚二十五年祝典(銀婚式)の参内者へ授与された大婚二十五年祝典之章(左:男性用、右:女性用)。皇族向けの金章。 1849年(嘉永2年)5月9日、京都、一条烏丸東入・一条家 桃花殿にて生誕する。 1867年(慶応3年)7月29日、明治天皇の女御に内沙汰、同年に皇居に初目見えで参内する。 1868年(明治元年)12月28日、入内。皇后冊立。 1869年(明治2年)1月1日、元日節会(正月一日)・白馬節会(正月七日)・踏歌節会(正月十六日)の三節会に臨席する。 1871年(明治4年)8月1日、宮中大奥改革の英断をする。 1872年(明治5年)6月17日、箱根離宮の下温泉へ行啓する。同年7月18日に還啓。10月21日、ロシア帝国のアレクセイ皇子(英語版)を謁見する。 1873年(明治6年)3月、新政府令に基づき、皇后自らが黛とお歯黒をやめる。同年5月、皇居宮殿で火事があり赤坂離宮に避難し、爾来そこを仮御所として住居にする。 同年6月13日、下野国甘楽郡富岡(群馬県富岡市)の富岡製糸場に行啓する。同月28日に還啓。 同年8月3日、明治天皇と共に箱根離宮に行幸啓する。同月31日に還幸啓。 同年12月7日、天皇と共に現在の神奈川県横須賀市にあった横須賀造船所に行幸啓する。同月8日に還幸啓。 1875年(明治8年)11月29日、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)の開業式に臨席する。 1876年(明治9年)6月2日、明治天皇奥州地方巡幸の見送りのため、皇后宮千住駅に行啓する。同年11月20日、京都に行啓する。同年12月5日に京都御所に到着する。 1877年(明治10年)2月28日、明治天皇と共に皇族として史上初の蒸気船・廣島丸に乗り、同月30日に横浜港に入港し東京に還幸啓する。同年10月26日、天皇と共に東京の上野公園に行幸啓し、第一回内国勧業博覧会を巡覧する。 同年11月27日、義母英照皇太后と共に、女子師範学校幼稚園と紙幣局製造場に行啓する。 1878年(明治11年)3月25日、天皇と共に日比谷原において大日本帝国陸軍近衛兵らの操練を巡覧する。 1879年(明治12年)4月28日、横浜に行啓する。軍艦『扶桑』・『金剛』・『比叡』等を巡覧する。同年5月29日、ドイツ帝国の皇族・ハインリッヒ皇子と謁見する。 同年7月4日、第18代アメリカ合衆国大統領のユリシーズ・グラント将軍夫妻と謁見する。 同年11月27日、宮城・吹上御苑において、島津忠義傳家の犬追物を観覧する。 1880年(明治13年)3月22日、皇居・吹上御苑において松浦詮等の騎射犬追物を観覧する。 1881年(明治14年)5月25日、横浜から軍艦『迅鯨』に乗艦し横須賀を行啓する。同年6月2日、武蔵府中連光寺河原に行啓し、鮎漁を観覧する。 1882年(明治15年)6月21日、向島に行啓し、隅田川で催されていた海兵の短艇競漕を台覧する。 1883年(明治16年)9月、香川敬三皇后宮大夫に命じ、皇太子嘉仁親王に心身安全のため、島根県・出雲大社へ毎年正月九日に両度供物を献上し祈祷する。 1885年(明治18年)7月8日、現在の東京都品川区にあった伊藤博文邸に行啓する。 1886年(明治19年)3月30日、軍艦『武蔵』の進水式に行啓する。同年7月30日、華族女学校(現在の学習院女子中・高等科の前身)行啓で洋装を公にする。 同年11月26日、明治天皇と共に相模国長浦(現在の神奈川県横須賀市)に行幸啓し、軍艦『浪速』・『高千穂』に試乗する。 1887年(明治20年)1月17日、女性の洋服の着用を奨励する「思召書」を出す。1月25日、天皇と共に孝明天皇二十年祭のため京都に行幸啓する、2月21日京都発で同月23日に武豊港より軍艦『浪速』に乗艦し24日に横浜港に到着。 同年5月、有志共立東京病院に約2万円(1200万円相当)を下賜。病院に「慈恵」という名を与え、「東京慈恵医院(現在の東京慈恵会医科大学附属病院)」と改称する。 1888年(明治21年)10月15日、横須賀で軍艦『高雄』の命名式に行啓する。同年11月21日、天皇と共に現在の埼玉県さいたま市に行幸啓。大日本帝国陸軍近衛兵の演習を台覧する。 1889年(明治22年)2月12日、東京・上野公園へ行啓、憲法発布祝賀会に臨御する。 1894年(明治27年)3月9日、大婚二十五年御祝典(銀婚式)を挙行する。同年4月19日、横須賀に行啓し、新造艦『松島』・『吉野』・『千代田』を台覧する。 1897年(明治30年)1月11日、英照皇太后崩御、4月17日、京都に行啓し英照皇太后御陵を参拝する。 1898年(明治31年)4月8日、東京の上野公園に行啓し、「奠都三十周年祝賀会」に臨御する。同年11月28日、横須賀に行啓する。軍艦『八島』に乗船し、艦橋上より軍艦『富士』・『高砂』を台覧する。 1902年(明治35年)11月15日、神奈川県横須賀市で軍艦『新高』の進水式に行啓する。 1903年(明治36年)4月23日、明治天皇と共に大阪に行幸啓し、第五回勧業博覧会・連日博覧会を観覧し、5月11日に東京に還啓。 1907年(明治40年)10月21日、横須賀で軍艦『鞍馬』の進水式に行啓する。 1909年(明治42年)1月15日、沼津御用邸へ避寒のために行啓する。 1910年(明治43年)4月27日、観桜会(園遊会)のため赤坂御用地へ行啓する。同28日、慈恵病院へ行啓する。 1911年(明治44年)5月18日、伊勢神宮参拝のため東京を出御し、名古屋に一泊する。同19日に山田に到着し外宮を参拝し、21日に内宮参拝し還啓。 1912年(明治45年/大正元年)5月8日、ドイツ帝国のヴァルデマール皇子と謁見する。 4月、国際赤十字に対して10万円を下賜、これを基金として「昭憲皇太后基金」が国際赤十字に設立され、それまで戦時救護だった赤十字活動に平時救護の理念が導入された。 7月18日、明治天皇が倒れ、以後毎晩看護する。 7月30日、明治天皇崩御、皇太后となる。 10月13日、桃山御陵参拝。同月17日還啓。 1913年(大正2年)7月21日、沼津御用邸より還啓し青山御所に入る。 1914年(大正3年)3月26日、狭心症の発作を起こす。 4月9日、午前1時50分に崩御。公式発表では「4月9日に重体に陥り、同月10日午後11時25分に東京に還啓し、11日午前2時50分崩御」。 5月9日、追号を『昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)』に治定する(大正天皇勅定)。 5月24日、大喪儀を執行。同月25日に東京発。 5月26日、京都府紀伊郡堀内村字堀内古城山(現在の京都市伏見区)にて斂葬の儀を執行。
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